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日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛文麿とも表記される。貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34... |
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尾崎秀樹
日本の文芸評論家。ゾルゲ事件の研究や、大衆文学評論に尽くした。ゾルゲ事件の尾崎秀実は異母兄。父尾崎秀真(尾崎白水)は戦前の台湾で文士・新聞記者とし... |
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リヒャルト・ゾルゲ
友達
ソ連軍のスパイである。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツ、日本の対ソ参戦の可能性等の... |
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米谷匡史
日本の歴史学者。専門は日本思想史で、東京外国語大学総合国際学研究院(言語文化部門・文化研究系)准教授。1990年、東京大学教養学部教養学科相関社会科学... |
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風間道太郎
風間道太郎 【かざま-みちたろう】 1件の用語解説(風間道太郎で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 風間道太郎 かざま-み... |
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西園寺公一
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日本の政治家。参議院議員、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事など歴任。民間大使の異名をとる。 |
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日本の昭和期の政治家。立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属の衆議院議員。当選9回。第1次近衛内閣書記官長、第2次近衛内閣司法大臣。茨城県豊田郡水海道... |
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太田尚樹(おおたなおき、1941年-)はスペイン史学者、歴史家、東海大学名誉教授。東京出身。戦争のため神奈川県に疎開し、そこで育つ。東京水産大学卒業、渡... |
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アグネス・スメドレー
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中国の小説家、翻訳家、思想家。本名は周樹人()で、字は豫才。ペンネームの魯は母親の姓だという。浙江省紹興市出身。弟に文学者・日本文化研究者の周作人... |
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蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
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中西功(なかにしつとむ、9月18日-8月18日)は共産主義運動の活動家・中国問題の政治評論家。元日本共産党参議院議員。三重県多気郡西外城田村土羽(今の多気... |
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宮城与徳
日本の洋画家、左翼運動家、社会運動家。「南龍一」と名乗り、ゾルゲ諜報団に参加した。ソ連のスパイとしてゾルゲ事件に関与して逮捕され、拘留先で病死した。 |
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プロフィール
- 尾崎秀実とは
- 共産主義のシンパ
- 上海へ
- 諜報活動
- 評論と政治活動
- 共産主義者
- ゾルゲ事件
- 年表
- 評価
- 家族
- 参考文献
- 関連サイト
尾崎秀実(おざきほつみ、4月29日-11月7日)は日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。 近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。共産主義者、革命家として リヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、スパイとして活動したが、最終的にゾルゲ事件として1941年発覚し、首謀者の1人として裁判を経て死刑 ...
共産主義のシンパ
| 報知新聞記者の父・秀真(ほつま)の子として東京芝伊皿子町で生まれる。 |
| 5ヵ月後、父が台湾総督府の後藤新平の招きを受け、台湾日日新聞社漢文部主筆として赴任したことから、台湾で育つ。 |
| 台北中学、一高を経て、東京帝国大学法学部を卒業、大学院で1年学んだ。 |
| この前後に共産主義のシンパになるが、運動には携わらなかった。 |
| たとえば、一高時代に森戸事件が起きたが、特に社会運動に参加はしていない。 |
| しかし、大正12年の関東大震災で無政府主義者の大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳になる甥が憲兵隊に殺害された事件に触発され、社会主義研究を始める。 |
| テキストはマルクスの『資本論』をはじめ、レーニンの『帝国主義論』、『国家と革命』であり、中国問題に着目するようになったのはカール・フォーゲルの『目覚めつつある支那』を読んでからである。 |
| 大正15年5月、東京の朝日新聞社に入社、社会部に籍を置く。 |
| この頃は「草野源吉」の偽名で社会主義の研究会や関東出版組合などに所属する。 |
上海へ
| 昭和2年10月から翌年の大阪朝日新聞の支那部に籍を置く。 |
| この大阪赴任中、一高の先輩で日本共産党員の冬野猛夫に会い、影響を受ける。 |
| 上海に渡る直前に、一高、東京帝大で同期でドイツ帰りの羽仁五郎から現地の新聞の研究・分析の重要性について教わる。 |
| その後、特派員として昭和2年11月に大阪朝日新聞社上海支局に転勤し、英語とドイツ語に堪能な尾崎は、太田宇之助支局長のもと外交方面を受け持つことになる。 |
| 上海滞在中、内山書店に通い、店主の内山完造や、そこに出入りする郭沫若や魯迅、中国左翼作家連盟の夏衍と交際する。 |
| また中国共産党とも交流した。 |
| 昭和3年11月、イレーネ・ワイテマイヤーが経営するツァイトガイスト(ドイツ語で「時代精神」の意)書店でアグネス・スメドレーに会い、コミンテルン本部機関に加わり諜報活動に間接的に協力するようになる。 |
| さらに、常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。 |
| 彼を通じてモスクワへ渡った南京政府の動向についてのレポートが高く評価され、南京路にある中華料理店の杏花楼で、ゾルゲから自分はコミンテルンの一員であると告げられ、協力を求められ、承諾する。 |
| 昭和6年春に、「日支闘争同盟」の会合に出席した際、満鉄調査部の上海満鉄公処の小松重雄の紹介で、川合貞吉と出会う。 |
| 関東軍の動向を探るため、同年6月に川合を満州に派遣する。 |
諜報活動
| 昭和7年2月末に大阪本社から帰国命令を受けて日本に戻り、外報部に勤務。 |
| 同年5月末に「南龍一」こと宮城与徳が本社に訪ねてきて、彼を介して奈良において6月初旬にゾルゲと再開、彼から諜報活動に従事するよう要請されて、全面的な支援を約束、ゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動するようになる。 |
| 暗号名は「オットー」である。 |
| 昭和9年10月、東京朝日新聞社に新設された東亜問題調査会勤務となり東京朝日新聞に転じる。 |
| 昭和11年、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となる。 |
| このとき西園寺公一の通訳であった牛場友彦とも面識を得る。 |
| 翌昭和12年4月から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加。 |
| 7月、東京朝日を退社し、総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋で第1次近衛内閣の内閣嘱託となる。 |
| 同時に、近衛主催の政治勉強会「朝食会」に参加、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。 |
| 昭和14年6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。 |
| ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。 |
| 昭和16年10月14日、ゾルゲ事件の首謀者の1人として逮捕される。 |
評論と政治活動
| 評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。 |
| こうした主張は、翌1月16日の第一次近衛声明に影響を与えた。 |
| 同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張、また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。 |
| 第1次近衛内閣が成立すると、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保ち近衛に尾崎を紹介した風見章は戦後、尾崎をマルクス主義の殉教者と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。 |
| 解答は急がずともよかろう。 |
| 歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」と述べている。 |
| 『改造』1951年5月号、支那事変の長期化問題、国内の政治・経済体制の方向付けに決定的な発言と指導的な役割を担っていた(近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している)。 |
| 尾崎を中心とした昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、昭和研究会のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた三田村武夫1950,p.51。 |
共産主義者
| 尾崎の真の姿は「完全な共産主義者」であり、その活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはなかったウィンストン・チャーチルは「多くの国が他の国々をスパイするが、ソビエト式スパイと他の国々のスパイとの相違は、共産主義の側では共産主義ユートピア実現のためには自分の祖国さえも犠牲にすることが宗教的信念と言える程という一点であり、この病気に感染している人々は自分の国の機密を敵に売ることなど少しも躊躇せず、これがソビエトスパイを甚だしく危険な存在にしている特異性の一つである」と述べ、クルト・ジンガーもソビエトスパイは最も危険であり、最も効果的なカモフラージュの陰にかくれていると主張している(クルト・ジンガー1953,p.4)。 |
| コミンテルンの活動家となったきっかけは幼少の頃台湾に住んでいたときに感じた差別、大学時代に起こった「大正十二年夏の第一次共産党検挙事件」「農民運動者の検挙事件」「大杉栄とその妻子の殺害事件」などから刺激を受け、社会主義を開拓していくことに英雄主義的な使命を感じたからである。 |
| その後、大学院に進学し、「唯物論研究会」に参加、共産主義の研究に没頭することになり、完全な共産主義者となった。 |
| 逮捕後の取調べでは、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している1942年3月8日、第22回調書。 |
ゾルゲ事件
| 拘置所で一緒だった伊藤律は、回想録で恰幅の良かった尾崎がやせ衰えていた事、別件の調査で尾崎に面会した予審判事の小林健治は総白髪になっていたこと驚いたと記している。 |
| 、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。 |
| ソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府から勲章と表彰状を受けたとされていたが、近年その存在が確認された。 |
| それを受けて、ロシア政府は親族からの申し出があれば勲章と賞状を授与すると2010年1月発表している。 |
| また尾崎と共に活動し投獄、獄死した宮城与徳の遺族は、勲章と表彰状を受領した。 |
年表
| 1901年、現在の岐阜県加茂郡白川町で生まれる。 |
| 幼少の頃は、日本統治下の台湾台北で育ち、臺北第一中學校(現台北市立建国高級中学)に進学。 |
| 、第一高等學校を卒業し、東京帝國大學法学部(現東京大学)に入学。 |
| 、卒業後、東大大学院に進学し、一年間在籍する。 |
| そこで、大森義太郎が指導する唯物論研究会に参加し、共産主義の研究を行った。 |
| 、朝日新聞社に入社し、東京朝日新聞に勤務。 |
| 社内でヨシフ・スターリンの『レーニン主義の諸問題』をテキストとした研究会を開催。 |
| 、大阪朝日新聞に転ずる。 |
| 11月、上海支局に転勤し特派記者となり、3年余、上海に在住。 |
| その間に中国共産党とも交流。 |
| アグネス・スメドレーと出会い、コミンテルン本部機関に加わり三田村武夫1950,pp.49-50、諜報活動に間接的に協力するようになる。 |
| さらに、リヒャルト・ゾルゲと出会う。 |
| 2月、大阪本社に戻り、外報部に勤務。 |
| この時期、ゾルゲから諜報組織に勧誘されて参加クルト・ジンガー1953,p.324。 |
| 10月、東京朝日に転じ、東亜問題調査会に勤務。 |
| 1936年、太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となり、牛場友彦と会う。 |
| 、4月から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加。 |
| 第1次近衛内閣の嘱託となり、1月の内閣総辞職まで勤める。 |
| 同時に、近衛主催の政治勉強会「朝飯会」のメンバーにもなり、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。 |
| 6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。 |
| ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務していた。 |
| 7月22日、第2次近衛内閣発足。 |
| 7月18日、第3次近衛内閣発足、第2次近衛内閣を引き継ぎ同年10月18日まで続いた。 |
| 9月6日の御前会議では、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英開戦を決定しているが、この件はその開戦を回避するために発足した東條内閣により見直されたため実際の開戦時期は遅くなった。 |
| 10月15日、ゾルゲ事件の首謀者の1人として逮捕される。 |
評価
| 尾崎は評論活動をしていた当時、「最も進歩的な愛国者」「支那問題の権威」「優れた政治評論家」などと評価され、評論家としての権威・評判は共産主義が抑圧されていた言論状況のもとでも高いものであった。 |
家族
| 文士・新聞記者で戦前の台湾で活躍していた尾崎秀真(尾崎白水)は父。 |
| 歴史学者(日本近現代史研究者)の今井清一は娘婿にあたる。 |
| 作家・文芸評論家で日本ペンクラブ元会長の尾崎秀樹は異母弟で以下の関連著作を出した。 |
| ゾルゲ事件 尾崎秀実の理想と挫折(中公文庫 1983年/初版は中公新書、1963年)。 |
| 生きているユダ ゾルゲ事件その戦後への証言(新版角川文庫 2003年/徳間文庫 1986年)。 |
| デザートは死尾崎秀実の菜譜(中公文庫 1998年/集英社 1983年)。 |
| ゾルゲ事件と中国(勁草書房 1989年)。 |
| 上海1930年(岩波新書 1989年)。 |
| 歳月尾崎秀樹の世界(学陽書房 1999年 自伝)。 |
参考文献
| 米谷匡史編『尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア』 平凡社東洋文庫、2004年ISBN4582807240。 |
| 尾崎秀樹編 『回想の尾崎秀実』 (勁草書房 初版1979年、オンデマンド版、2005年)。 |
| 今井清一編 『開戦前夜の近衛内閣 満鉄「東京時事資料月報」の尾崎秀実政治情勢報告』 (青木書店、1994年)。 |
| 太田尚樹『赤い諜報員 ゾルゲ、尾崎秀実、そしてスメドレー』 (講談社2007年)。 |
| 風間道太郎 『尾崎秀実伝』(教養選書・法政大学出版局 1995年)。 |
| 笹本駿二 『人間・尾崎秀実の回想』(岩波書店 1989年)。 |
| 中里麦外 『尾崎秀実ノート そのルーツと愛』(刀水書房 2004年)。 |
| 『現代史資料 ゾルゲ事件』(全3巻)みすず書房、初版1962年。 |
| チャールズ・ウィロビー『赤色スパイ団の全貌:ゾルゲ事件』 福田太郎訳、東西南北社刊、1953年。 |
| 三田村武夫『戦争と共産主義:昭和政治秘録』民主制度普及会1950年。 |
| 三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』自由社1987年ISBN4915237028。 |
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1901年
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現在の岐阜県加茂郡白川町で生まれる |
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太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参... |
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