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つながりの強いひと
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伊藤博文
日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
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岩倉具視
贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。 |
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木戸孝允
幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。位階勲等は贈従一位勲一等。長州藩士で、明治初期... |
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大久保利通
日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑... |
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井上馨
日本の武士・長州藩士、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。元老桂太郎陸軍大将とは義理の親子の... |
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大隈重信
日本の武士(佐賀藩藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農... |
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貝原俊民
貝原俊民(かいはらとしたみ、1933年8月24日-)は日本の元官僚、元政治家(第5代兵庫県知事(在任期間:1986年11月24日〜2001年7月31日、4期))。2007年4月29... |
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山村亮
佐賀県出身のラグビー選手である。ポジションはプロップ。ジャパンラグビートップリーグのヤマハ発動機ジュビロ所属。 |
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武内宿禰
『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人... |
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久米邦武
幕末の佐賀藩士で、近代日本の歴史学における先駆者。長男は洋画家の久米桂一郎。 |
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鍋島茂義
江戸時代末期の第28代佐賀藩自治領武雄領主。通称は十左衛門。墓は佐賀県武雄市の円応寺にある。 |
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板垣退助
日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。位階勲等爵位は従一... |
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副島種臣
副島種臣(そえじまたねおみ、1828年10月17日(文政11年9月9日)-1905年(明治38年)1月31日)は日本の武士・佐賀藩士、官僚、政治家である。勲等は勲一等。... |
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後藤象二郎
幕末の武士(土佐藩士)、明治時代の政治家。正二位勲一等伯爵。旭日大綬章。幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本(まさもと)、のち元曄(もとはる... |
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鍋島茂昌
江戸時代末期の第29代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島上総の名で呼ばれることが多い。墓は佐賀県武雄市の円応寺にある。 |
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江藤新平
江藤新平(えとうしんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日)-明治7年(1874年)4月13日)は日本の武士(佐賀藩士)、政治家である。幼名は恒太郎・又蔵。諱は... |
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黒田清隆
薩摩藩士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。位階はは従一位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。通称は仲太郎、了介。新字体で黒田清隆(くろだきよたか)と表記... |
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陸奥宗光
幕末から明治時代の武士、政治家、外交官。カミソリ大臣と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之... |
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岩村通俊
日本の武士、政治家。鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた。 |
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プロフィール
- 山口尚芳とは
- 旧幕時代
- 維新政府への出仕と遣欧使節副使
- 帰朝後
- 参考文献
山口尚芳(やまぐちますか/なおよし、天保10年5月11日(1839年6月21日)-明治27年(1894年)6月12日)は、明治時代の官僚、政治家、もと佐賀藩士(武雄領出身)。父は 山口尚澄。通称は範蔵(はんぞう)。
旧幕時代
| 幼少のころから佐賀藩武雄領主鍋島茂義に将来性を見込まれ、佐賀藩主鍋島閑叟(直正)の命により、他の藩士子弟らとともに長崎に遊学し、オランダ語や蘭学を学んだ。 |
| また、同藩の大隈重信・副島種臣らと共に、当時ちょうど来日していたグイド・フルベッキに長崎英語伝習所で英語を学んでいる。 |
| 帰藩後は、翻訳方兼練兵掛として勤務する。 |
| 幕末の政治状況の中で、薩摩藩や長州藩の武士と交流し、薩長連合にも尽力したという。 |
| また岩倉具視ら公家にも接近し、王政復古後は東征軍に従軍。 |
| 江戸開城に伴い薩摩藩の小松帯刀らとともに江戸へ赴いた。 |
維新政府への出仕と遣欧使節副使
| 明治新政府においては、明治元年(1868年)3月に外国事務局御用掛、4月に外国官、5月に大阪府判事試補、9月に越後府判事続いて東京府判事兼外国掛、11月には外国官判事になるとともに箱館府在勤を命ぜられ、従五位下に叙せられる。 |
| 明治2年(1869年)1月、長崎に出向きフルベッキに対し東京に新たに大学を作るため招聘する旨伝え、フルベッキはこれを受諾する。 |
| 4月に外国官判事兼東京府判事となり通商司総括を命じられる。 |
| 5月、会計官判事を命ぜられ、6月には会計官判事をもって大阪府在勤を命ぜられる。 |
| 7月、大蔵大輔と民部大輔を兼務した同郷の大隈重信を補佐して、大蔵大丞兼民部大丞となる。 |
| 明治3年(1870年)5月、北海道開拓御用掛を命ぜられ、明治4年(1871年)8月には外務少輔に転じた。 |
| 同年10月、従四位に叙された上で、米欧の視察および条約改正の下準備として岩倉を全権大使とした岩倉遣欧使節が派遣されるにおよび団員となり、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文とならぶ副使に任命されて、明治6年(1873年)9月まで、各国を歴訪した。 |
| その際、子息俊太郎を帯同し、俊太郎を英国に留学させたまま帰国する。 |
帰朝後
| 帰国後に起きた征韓論争においては、大久保・木戸らとともに遣韓使節反対の立場を取る。 |
| このため、明治7年(1874年)2月に征韓論を唱えた江藤新平らが起こした佐賀の乱においては、政府軍の側に立って鎮圧に尽力した。 |
| まず、故郷・武雄の元領主鍋島茂昌(しげはる)やその家臣であった士族を説諭し、反乱への呼応を抑止した。 |
| また、自らは、2月12日、長崎に入り、海軍警備兵を率いて大村、武雄を経て3月1日に佐賀に入城、乱の鎮圧に当たった。 |
| なお、佐賀の乱の際、武雄は反乱軍の脅迫に屈し64名の兵士をやむなく乱に派遣していたため問題となったが、尚芳は、鍋島茂昌が新政府軍に提出する予定の謝罪文を添削するなど武雄の罪を免ずるために努力している。 |
| 明治8年(1875年)4月、元老院議官。 |
| 明治13年(1880年)には元老院幹事となり、会社並組合条例審査総裁となる。 |
| 明治14年(1881年)5月、前年に設置された会計検査院の初代院長に就任し、7月に勲二等に叙せられる。 |
| しかしながら、大隈重信が新政府から追放された明治十四年の政変の影響で、同年10月に会計検査院長の職を辞し、参事院(内閣法制局の前身)の議官となり外務部長兼軍事部長に任ぜられる。 |
| 明治15年(1882年)から明治16年(1883年)にかけては、戒厳令、清韓両国在留ノ御国人取締規則、徴兵令改正案が元老院審議に付されるに当たり内閣委員に命ぜられる。 |
| 明治18年(1885年)10月、正四位に叙され、12月、参事院が廃された後は再び元老院議官となる。 |
| 明治19年(1886年)10月、従三位に叙され、明治20年(1887年)2月、高等法院陪席裁判官となる。 |
| 明治23年(1890年)9月、貴族院議員に勅撰される。 |
| 明治27年(1894年)5月、重病に当たり正三位に叙せられ、6月12日、死去。 |
| また、公民館の横には、昭和5年(1930年)に地元の有志により建設された記念碑が立っている。 |
参考文献
| 『国史大辞典』(吉川弘文館)「山口尚芳」(執筆:石塚裕道)。 |
| 『明治維新人名事典』(日本歴史学会編、吉川弘文館、1981年)1031ページ「山口尚芳」。 |
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1839年
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山口 尚芳(やまぐち ますか/なおよし、天保1... |
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1868年
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外国事務局御用掛、4月に外国官、5月に大阪府... |
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