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つながりの強いひと
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坂倉準三
日本館の設計を手がけ、日本のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、海外でも高い評価を受けた。妻は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007... |
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林芙美子
日本の小説家。物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。 |
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渡辺豊和
渡辺豊和(わたなべとよかず、1938年-)は日本の建築家、京都造形芸術大学教授。日本のポストモダンを代表する建築家の1人で、1987年に「龍神村民体育館」で... |
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バウハウス
友達
1979年にデビューしたイギリスのロックバンド。名前はドイツのバウハウス芸術活動から由来している。当初は「バウハウス1919」という名前だったが、コマーシ... |
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長谷川逸子
長谷川逸子(はせがわいつこ、1941年-)は日本の建築家。菊竹清訓事務所出身。静岡県焼津市出身。関東学院大学工学部建築学科卒業。東京工業大学研究生を経て... |
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吉田五十八
吉田五十八(よしだいそや、1894年(明治27年)12月19日-1974年(昭和49年)3月24日)は昭和期に活躍し、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化した建築... |
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山口勝敏
アンコール・リクエストが多い“3ライブ・セレクション” を CD にまとめられたとのコトです。 間単にご紹介させてください・・・ ² 三部構成・・・ 第Ⅰパート... |
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山田守(やまだまもる、1894年4月19日-1966年6月13日)は日本の建築家。逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的... |
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植田 実 [更新日: 2010/08/05 ] フリガナ ウエダ ミノル 英名 Minoru Ueda 所属 びわこ成蹊スポーツ大学助教授 肩書き 日本テニス協会強化本部NTC運営委員 生... |
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小泉八雲
新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 |
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前川國男
前川國男(まえかわくにお、1905年5月14日-1986年6月26日)は昭和期に活動した建築家。ル・コルビュジエ、アントニン・レーモンドの元で学び、モダニズム建築... |
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白井晟一
日本の建築家。京都市出身。白井七蔵・えんの長男。下京区間之町五条下ルの白井七蔵(造)は銅延業者で第1・2回内国勧業博覧会に出品した当時の代表的な銅板... |
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清家清
日本の建築家。日本における代表的な現代建築家。戦後すぐに「森邸(1951年)」を発表し、同じ50年代に発表された、池辺陽の「立体最小限住宅(1950年)」、... |
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石本喜久治
石本喜久治(いしもときくじ、1894年2月15日-1963年11月27日)は日本の建築家。神戸市生まれ。1920年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同期卒業の堀口捨己... |
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宇奈月
東京都葛飾区 出身のローカルタレントである(一部... http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A5%88%E6%9C%88%E6%BA%80 宇奈月満 プロフィール - あのひ... |
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土浦亀城
土浦亀城(つちうらかめき、明治30年(1897年)6月29日-平成8年(1996年)1月29日)は昭和期の建築家である。茨城県水戸市生まれ。横山大観は叔父にあたる。1918... |
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丹下健三(たんげけんぞう、1913年(大正2年)9月4日-2005年(平成17年)3月22日)は日本の建築家、都市計画家。「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家とし... |
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米田明
日本の建築家。兵庫県出身。京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科准教授。 |
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プロフィール
- 山口文象とは
- 経歴
- 山口文象の土木デザイン
- 主な計画・設計・デザイン
- 名前
- 関連サイト
山口文象(やまぐちぶんぞう、男性、1902年1月10日-1978年5月19日)は、1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。
経歴
| 祖父は宮大工、父は清水組(現・清水建設)の大工棟梁。 |
| 1915年、親の反対に遭い府立一中(現東京都立日比谷高等学校)入学翌日に退学を余儀なくされ、東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科大工分科入学(現東工大附属高)。 |
| 同期には横河工務所に入り、構造技術者として活躍し、山口の代表作である日本歯科医学専門学校付属医院の構造設計も担当した田中正蔵がいる。 |
| 1918年、東京高等工業学校附属職工徒弟学校を卒業し、父の仕事を継ぐべく清水組に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属された。 |
| しかし建築家に憧れ、1920年に退社して東京に戻り、逓信省営繕課の製図工になる。 |
| ここで山田守、岩元禄たちと出会い才能を認められ、1923年、近代建築運動グループ・分離派建築会の一員となり、建築家への道を歩みだす。 |
| 関東大震災直後の1923年10月、製図工仲間たちとともに創宇社建築会を結成して新たな建築運動を展開し、近代建築運動に大きな影響を与える。 |
| 1924年、関東大震災の復興事業を担当した帝都復興院を改組して内務省に設けられた復興局橋梁課の嘱託技師となり、主に震災復興の橋梁デザインに関わった(清洲橋、数寄屋橋、浜離宮南門橋など)。 |
| 更に日本電力の嘱託技師も兼務し、富山県の庄川や黒部川のダムや発電所の建築や土木デザインに関わった(黒部川第二発電所、目黒橋、小屋平ダムなど)。 |
| 竹中工務店、石本喜久治建築事務所を経て、1930年12月、シベリア経由で渡欧。 |
| その目的は、日本電力が建設していた黒部川第2発電所関係のダムに関する水理技術調査であった。 |
| 当時バウハウスを辞してベルリンにいた建築家ワルター・グロピウスのアトリエで働きつつ、ダム関係の調査、ベルリン在住の左翼系日本人たちと交流した。 |
| 1932年に帰国して山口蚊象建築設計事務所を主宰。 |
| 日本歯科医学専門学校付属医院を設計し(1934年竣工)、最先端のモダニズム建築として一躍注目され、1938年、黒部第2発電所関連の作品を発表して建築家として確固たる地位を築いた。 |
| 番町集合住宅や小林邸、山田智三郎邸、西竹男邸などのモダニズム建築を発表した。 |
| その一方で、大工棟梁の息子として和風建築にも造詣が深く、鎌倉浄智寺・関口邸茶席、画家・前田青邨邸、小説家・林芙美子邸、自邸など木造の本格的和風住宅にも多くの秀作があるが、これらは積極的には公表しなかった。 |
| 戦中は各地の軍需工場に動員された工員たちの木造宿舎群を、ドイツで学んだジードルンクになぞらえて数多く設計した。 |
| 戦争による逼塞の後、1949年に猪熊弦一郎と企画して、美術団体の新制作協会に谷口吉郎、前川国男、丹下健三等とともに建築部を設立し、戦後の活動に踏み出した。 |
| 1951年、三輪正弘、植田一豊とRIAグループと称して集団建築設計方法の模索ののち、1953年に協同設計組織として「RIA建築綜合研究所」を設立し、戦後のモダン住宅設計をリードし、劇団・新制作座文化センター、朝鮮大学校校舎、神奈川大学などの禁欲的なデザインで注目を集めた。 |
| RIAは現在は株式会社アール・アイ・エーと改称して、総合的な建築設計と都市計画コンサルタント組織となっている。 |
山口文象の土木デザイン
| 日本では戦前に建築家が橋やダム等の土木構築物のデザインにかかわる例はいくつかあり、最初期が皇居二重橋や神戸港の施設群に河合浩蔵、東京・日本橋の麒麟の彫刻、欄干、照明器具等の装飾的デザインに妻木頼黄、大阪や京都の市区改正などに伴う架け替え橋梁のデザインに武田五一がかかわっている例があるほか、1885年着工の琵琶湖疏水の場合設計者の田辺朔郎のもとで滋賀県の建築技師をしていた小原益知が加わってトンネル口レリーフや水楼閣のデザインを、また呉服橋と鍛冶橋は東京市建築営繕担当の田島穧造と福田重義らが検討している。 |
| 逆にフランスでエンジニア教育を受けて帰国後東京市の下水道計画に関わりながら後文部省に移り建築家になった山口半六の例や札幌農学校土木工学科を首席卒業後鉄道院に入り鉄道技術者となった後アメリカ・イリノイ大学大学院に留学、鉄筋コンクリート構造を学び、卒業論文「鉄筋コンクリート造剛接加工の理論と実験に関する研究」でドクトル・オブ・フィロソフィー(Pr.D)の学位を取得し帰国後、東京~万世橋間で日本国内初の鉄道高架橋の設計を担当後に官を辞して独立し設計事務所を開設した阿部美樹志のように土木技師から建築家になるケースもあった。 |
| 他に関東大震災の帝都復興事業における神宮外苑の街路等に佐野利器が関与などのケースや建築家が公園をデザインするようなケースがあったが、田中豊は橋梁デザイン担当として山田守を逓信省から引き抜き、内務省帝都復興局に移って、組織の一員として担当していた。 |
| この山田の引きで山口文象も引き抜かれ復興局の嘱託技師となる。 |
| 橋の欄干、照明器具等の装飾的なデザイン(図面にサイン有り)や、橋の完成予想の透視図を描いていること、橋梁技師である成瀬氏あるいは山口本人の証言等から、橋梁デザインに関わったことは確かである。 |
| なお、この仕事は創宇社メンバーのアルバイトでもあった(竹村新太郎の談話)。 |
| 御茶ノ水の聖橋は山田守のデザインであることは、その独特のアーチの形態からも分かるが、この計画の透視図を山口文象が描いている。 |
| 隅田川の清洲橋、厩橋、言問橋等の透視図も描いているから、土木構造物を透視図に描いて意匠を検討する役割を持っていたかもしれない。 |
| しかし、山口の話では、清洲橋の橋げたとそこからはねだす歩道部分の構造について、その見かけを薄く見せるデザインに腐心したというから、土木エンジニアとの共同作業もあったことがうかがえる。 |
| 山口のデザインした橋に数寄屋橋があり、その欄干の丸みが特徴であり、NHKラジオドラマ「君の名は」の映画にも登場し、やはり山口が関係した朝日新聞社社屋(竹中工務店・石本喜久治設計、現存しない)と好一対の風景であったが、東京オリンピック前の河川埋め立てで消えた。 |
| 古典的な意匠としては、浜離宮南門橋が今もある。 |
| 山口が土木デザインでその力量を発揮したのは、日本電力の仕事で富山県の庄川と黒部川でのダムや発電所であった。 |
| 特に黒部川第二発電所関係では、発電所はもちろんのこと、対岸からこの発電所に渡る鉄橋(目黒橋)、上流部の小屋平ダムと沈砂池など、一連の建築と土木デザインを真正面から行っている。 |
| 黒部川渓谷の奥に施設をつくることは、風致保存上から反対意見もあり、親友前川国男の父で内務省の技官トップであった前川貫一に話をつけてもらう。 |
| 小屋平ダムについては日本電力から渡欧の費用が出されて、1931年のベルリン滞在時にカールスルーエ工科大学にダム水理の権威者レーボック教授を訪ねて調査をしている(滞欧時の山口文象の手帖記述による)。 |
| 黒部等での山口の土木デザインには装飾的なものは一切なくて、土木構造物そのもののダイナミックで均整のとれたプロポーションを追っており、何枚ものデザインを試みたスケッチがある。 |
| なお、箱根の湯元にも小さなダムをデザインしており、今も現存する。 |
主な計画・設計・デザイン
| 小泉八雲記念館(松江市 1933年) 現存しない(現在の記念館は1984年改築)。 |
| 関口邸茶席・会席(鎌倉市 1934年) 現存。 |
| 日本歯科医学専門学校付属医院(千代田区 1934年) 現存しない。 |
| 西一雄男爵邸(東京麻布 1935年) 現存しない。 |
| 山田智三郎邸(鎌倉市 1935年)現存しない。 |
| 小林邸(大田区 1936年)現存しない。 |
| 番町集合住宅(千代田区 1936年)現存しない。 |
| 前田清邨邸・アトリエ(鎌倉市 1936年) 現存。 |
| 山形梅月堂(山形市 1937年)現存。 |
| 日本電力黒部川第二発電所・小屋平ダム(黒部市 1936~38年)現存。 |
| 山口文象自邸(大田区久が原 1940年)現存(現・クロスクラブ)。 |
| 林芙美子邸(新宿区 1941年)現存(現・林芙美子記念館)。 |
| 相模湖芸術村構想(津久井 1945年) 猪熊弦一郎等と計画したが実現せず。 |
| 高松近代美術館(高松市 1949年)現存しない。 |
| 久が原教会(大田区 1950年)現存しない(現・久が原教会は1962年改築=RIA設計)。 |
| 関東学院グレセット記念講堂(横浜市 1950年)現存しない。 |
| ローコストハウス(新制作展出品 1952年) 現存しない。 |
| 神奈川大学校舎・図書館・本館等(横浜市 1954年~) 一部現存。 |
| 大日本製糖工場(堺市 1954年)現存しない。 |
| ニエ・アルの碑(藤沢市 1955年) 現存。 |
| 朝鮮大学校校舎(小平市 1959年)現存。 |
| 美術家聯盟会館(東京中央区 1962年)現存。 |
| 新制作座文化センター(八王子市 1964年)現存。 |
| 千里ニュータウンC地区分譲住宅(1964~1965年)。 |
| 新大阪繊維卸センター「センイシティ」 (1966年)。 |
| 茨城県下館綜合卸センター (1965年)。 |
| 高野実邸(横浜市戸塚区 1967年) 。 |
| 茨城県鹿島地区流通センター (1968年)。 |
| 佐藤進別邸(長野県軽井沢 1969年)。 |
| 高岡問屋センター団地 (1968~1969年)。 |
| 石嶋清仁別邸(長野県軽井沢鹿島の森 1968年) 。 |
| 豊岡市豊岡卸センター (1969年)。 |
| 和歌山プラクリ丁 (1969年)。 |
| 佐藤別邸(神奈川県油壷 1969年)。 |
| 木名瀬邸(東京都世田谷区 1970年)。 |
| 佐藤茂邸(東京都下落合 1970年)。 |
| 石嶋清光別邸(神奈川県箱根明神平 1969年)。 |
| 菊地邸(東京都立川市異聞 1970年)。 |
| 坂井邸(神奈川県鎌倉市稲村ケ崎 1970年)。 |
| 是の字寺(岡崎市 1971年) 現存。 |
| 町田郷土資料館(町田市 1975年) 現存(現・町田市立博物館)。 |
| (注:1953年RIA設立以後は山口が主として設計した作品のみ掲載)。 |
名前
| 出生時の戸籍名は山口瀧蔵。 |
| 8歳で母方叔母の岡村家の養子になった。 |
| 小学校4年の時、姓名判断で文三に改めたが、噺家と同じ名前ということで蚊象に改めた(通称)。 |
| 大正・昭和初期は岡本蚊象名義で活動。 |
| 渡欧直前に山口姓に戻り山口蚊象としたが、1942年に山口文象と改めた。 |
| 戸籍名は瀧蔵のままであったが、1957年に戸籍名も文象とした。 |
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1915年
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親の反対に遭い府立一中(現東京都立日比谷高... |
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1923年
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近代建築運動グループ・分離派建築会の一員と... |
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投票数
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