| 将棋には幼少の頃から熱心に打ち込み、専業作家になってからも、原田泰夫の弟子である山口英夫を自宅に呼んで稽古をつけてもらっていた。 |
| また、将棋棋士たちの世界のことが一般に知られていないことに義憤をいだき、「将棋界の宣伝マン」と自ら名乗った。 |
| 「将棋界は大天才の集団」と唱え、著書や観戦記などで、個性的な将棋棋士たちを紹介した。 |
| また、対局で出会ったプロ棋士山田道美と飛車落ちの新定跡「瞳流6筋位取り戦法(瞳流位取り)」を研究・創案。 |
| これを用いて「血涙十番勝負」では、飛車落ちで、当時のトッププロであった米長邦雄、原田泰夫に勝利し、山田道美と引き分け、3勝6敗1分けという結果を残した。 |
| なお、将棋では千日手や持将棋などは再試合となるため、純粋な引き分けが記録されることは殆どなく、山口の1分けという棋譜は非常に変わった記録である。 |
| しかし、アマチュアの段位を貰うことは頑なに拒んだ。 |
| これは山口が子供の頃プロ棋士を志望したが、当時の棋士の収入の低さを不安に思ってやめてしまったという複雑な感情に起因する。 |
| しかし、その「血涙十番勝負」の企画で、蛸島彰子初段(当時)と平手対局するにあたり、将棋連盟の強い要望によりアマ四段の免状を受けている。 |
| これは、万が一プロの二段(当時、女流棋界は発足する前で、蛸島は奨励会の初段としてプロを目指した後、二段ということで対局していた)が無段の人間に負けては示しがつかない、というのが理由である。 |
| また「子供の頃からの夢」であった、名人戦第1局の観戦記執筆もかなえた。 |
| だが、晩年には、山口英夫や将棋連盟の米長邦雄との間にトラブルが起きたことや、将棋界の保守的な体質に対して不信感を抱いた事もあり、将棋界との交流を絶った。 |
| ただし、1987年に創設された、将棋を愛する作家、ジャーナリスト、観戦記者たちの団体「将棋ペンクラブ」には参加し、「将棋ペンクラブ大賞」の選考委員も、死去するまでつとめた。 |
| 東京や、取材で訪れた旅行先等で、お気に入りの店がみつかると、その店に通いつめる性格であった。 |
| そうした「行きつけの店」たちのことを、たびたび『男性自身』等に描いている。 |
| また、自らの母親の家系が「サービス業」だったせいか、「飲食業の人たちが仲間に思える。 |
| 大きな顔をして客らしく構えることができず、どうしても従業員の人に気を使ってしまう」とも書いている。 |
| ただし、執筆のための飲食では、出版社に「接待」されていたため、晩年、デビューしたばかりの田中康夫から「自分は自腹を切って、料理店の批評を書いている。 |
| 山口のように自分のお金で飲食しないのでは、その店を正しく評価できない」と批判された。 |
| サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、『礼儀作法入門』はロングセラーとなっている。 |
| サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日と4月1日の恒例となっていた。 |
| 晩年の向田邦子の、最も近くにいた作家の一人。 |
| その随筆や短編小説に惚れ込み、第83回直木賞では向田を強く推薦して受賞に至らしめた。 |
| 仕事の上での交友関係も続いたが、向田の突然の事故死には大きなショックを受け、「アル中寸前」にまで陥ったという。 |
| こうした向田とのエピソードの多くは、『男性自身 木槿の花』に収められている。 |
| なお、山口は向田の死後、「向田邦子は八方美人的なところがあり、誰もが『自分が一番愛されている』と思わせる天才だった。 |
| それゆえ嘘つきだった」と評した。 |
| 競馬を介して交流があった色川武大が死去した際も、同趣旨の追悼文を書いた。 |
| かねがね「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社当時、息子の山口正介が東京郊外の国立市の中学校に通っていたことから、国立に居を移し、気に入って終生の棲家とした。 |
| 国立に移住する際、師と仰いだ高橋義孝の紹介による若手女性建築家に自宅の設計をまかせたところ、「コンクリート打ちっぱなし、家の真ん中にある半地下の部屋が食堂」という、非常にモダンで実験的な家ができあがった。 |
| 山口自身は、和風な家が好みであったが、高橋との義理のため、このうちに我慢して住んだ。 |
| 大雨の際に地下の食堂が浸水したり、晩年の足が不自由になった際でも、食堂にいくため一々階段を下りなければならない等、「実験的な家」は住むには不自由な家であった。 |
| 『男性自身』でも度々地元・国立のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。 |
| なお、谷保天満宮では、ある朝突然たずねてきた伊丹十三と宮本信子に依頼されて、山口が立会人をつとめて、その日のうちに彼等の結婚式が行われた。 |
| 気さくな人柄で谷保駅前の焼き鳥屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。 |
| 『居酒屋兆治』はそんな経緯から生まれた作品である。 |
| 近所に住む彫刻家関保寿(ドストエフスキーに容貌が似ていることから、作中では「ドスト氏」と表現)とは特に気が合い、一緒に数多く旅行をした。 |
| 旅行先では、地方競馬に興じたり、油絵を描くなどして、楽しんだ。 |
| 妻とは鎌倉アカデミア時代に知り合った。 |
| 妻の実家は東京向島で皮革業を営んでいた。 |
| 結婚後、彼女が現在でいうパニック障害(当時はノイローゼと診断)にかかったため、妻は電車に乗れず、共に外出する際は、いつもタクシーを用いた。 |
| 妻と幼い息子を連れて、銀座のバーにでかけたこともあるという。 |
| 筋金入りの反戦主義者であり、「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」など、強固な信念に基づく見解を『男性自身』などで述べている。 |