| 1897年(明治30年)7月17日、広島県広島市に生まれる。 |
| 少年期から竹久夢二や北野恒富、オーブリー・ビアズリーに憧れ、模写に没頭する。 |
| 旧制・和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)後、1916年(大正5年)ギャラリー「ときの忘れもの」公式サイト内「 |
| 、大阪へ出て、赤松麟作が主宰する「赤松麟作洋画研究所」第2期生となり、絵画を学ぶ#外部リンク内の「SHISEIDOARTHOUSE山名文夫作品展」リンク先の記述を参照。 |
| 20歳になる1917年(大正6年)、同人誌『Chocolate』(チョコレート)に加わり、夢二や北野、ビアズリーらの絵に影響を受けた作品や詩を発表した「財団法人吉田秀雄記念事業財団」公式サイト内の記事、中島祥文「 |
| 1923年(大正12年)、「クラブ化粧品」で知られる大阪の化粧品会社・中山太陽堂が併設する出版社「プラトン社」に入社し、図案家として雑誌『女性』や『苦楽』の表紙装丁やカットなどに腕をふるう。 |
| 同期入社は、デザイナーには山六郎、編集者には、小山内薫の推薦で入社し、のちに小説家となる直木三十五(当時「直木三十二」)、川口松太郎の2人がいた。 |
| 1924年(大正13年)、第一回「大阪市美術協会展覧会」に入選。 |
| 同年、雑誌『サンデー毎日』(毎日新聞社)に挿画を連載し始めた。 |
| 1928年(昭和3年)、プラトン社を退社、翌1929年(昭和4年)、東京・新橋の化粧品会社・資生堂の意匠部に入る。 |
| プラトン社で培われた実力がここで花開き、アール・デコ調の「モダン・ガール」を資生堂広告紙上で完成させてゆく。 |
| 西洋のものまねや技術の習得に終始していた修練を終え、大正期の日本に、女性をめぐって起こりつつあった新風俗や新文化にいち早く呼応して、それを目に見えるかたちに置き換えた。 |
| 童顔の日本美人に欧米の香りをふりかけた、独特のモダン・ガールはその集大成であった。 |
| 1931年(昭和6年)、34歳になるころ資生堂を退社し、「東京広告美術協会」を設立した。 |
| 1933年(昭和9年)、写真家の土門拳、藤本四八、グラフィックデザイナーの河野鷹思、亀倉雄策らとともに、写真家の名取洋之助の第2次「日本工房」に参加し、雑誌『NIPPON』のレイアウトなどを行う。 |
| このころ、熊田五郎が山名に師事し、ともに『NIPPON』のデザイン等に従事した。 |
| 1936年(昭和11年)、「日本工房」を退社して資生堂に戻り、1939年(昭和14年)、東京市世田谷区成城町392番地(現在の東京都同区成城6丁目)に自宅兼アトリエを開いた世田谷美術館公式ブログ「セタビブログ」内の「 |
| 1945年(昭和20年)、48歳で第二次世界大戦の終戦を迎え、1947年(昭和22年)から1967年(昭和42年)まで、多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)の図案科教授を務めた。 |
| 当時の教え子に湯村輝彦がいる。 |
| 1948年(昭和23年)、資生堂に復帰した。 |
| 54歳になる1951年(昭和26年)、亀倉雄策、早川良雄らと「日本宣伝美術会」(日宣美)を設立、初代委員長に就任した。 |
| 69歳になる1965年(昭和40年)には、日本デザイナー学院を設立し、初代学院長を務めた。 |
| 同年12月、世田谷区成城の自宅兼アトリエを閉じ、終生の住まいとなる多摩市桜ヶ丘に転居した。 |
| 70歳を迎える1967年(昭和42年)、勲四等瑞宝章を受章した。 |
| 1969年(昭和44年)、72歳のとき、資生堂の宣伝部制作室長を辞する資生堂公式サイト内の「 |
| 資生堂の「花椿マーク」(原型は福原信三)や「deLuxe」(ドルックス)の唐草模様のほか、スーパーマーケットの「紀ノ国屋」のロゴ(1953年)、新潮社の「新潮文庫」の葡萄マーク(1950年)のデザインも手がけている。 |
| 1980年(昭和55年)1月14日、死去する。 |
| 山名はヘビースモーカーで、缶ピースを好んだ。 |
| 亡くなるまで資生堂とかかわり、現役デザイナーとして活躍した。 |
| 没後、日本宣伝賞委員会(日本宣伝クラブ)が、その年業界の隆盛に功績のあったクリエーターに贈る「日本宣伝賞山名賞」を創設した。 |
| 2007年(平成19年)、世田谷美術館に山名文夫の成城時代のアトリエが再現され、会期を終え解体された。 |