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青山繁晴
独立総合研究所代表取締役社長。近畿大学経済学部・総合経済政策学科客員教授(国際関係論)。原子力委員会・専門委員。夫人は水産学研究者、水産学博士で、... |
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藁科満治
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佐高信(さたかまこと、1945年1月19日-)は日本の評論家、東北公益文科大学客員教授。週刊金曜日編集委員・株式会社金曜日前代表取締役社長。 |
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誕生
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金丸信(かねまるしん、1914年9月17日-1996年3月28日)。日本の政治家。衆議院議員(12期)、国務大臣・副総理、防衛庁長官(第35代)、国土庁長官(第3代)... |
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竪山利文(たてやまとしふみ、1924年-2007年10月21日)は日本の労働運動家。東芝出身で、全日本電機機器労組連合会委員長を経て、全国中立労働組合連絡会議議... |
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著者情報 高木 郁朗 1939年岐阜県生まれ。1961年東京大学経済学部卒業。山形大学教授、日本女子大学教授を経て、山口福祉文化大学教授。専攻は社会政策、労使... |
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石川知裕(いしかわともひろ、6月18日-)は日本の政治家、衆議院議員(2期)。 |
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プロフィール
- 山岸章とは
- 生い立ち
- 労働運動に入る
- 労働戦線統一
- 政界再編
- 江田父子との交流
- 参考文献
- 関連項目
山岸章(やまぎしあきら、7月18日-)は、日本の労働運動家。勲一等瑞宝章受章。日本労働組合総連合会初代会長、国際郵便電信電話労働組合連盟(PTTI)会長、情報通信産業労働組合連合会委員長、全国電気通信労働組合(全電通)委員長を歴任した。
生い立ち
| 行商人の子として生まれる。 |
| 父親は仕事が長続きせず、職業を転々としていたため、幼少期は貧しい生活を送った。 |
| 旧制豊岡中学の学生だった1944年、海軍甲種予科練習生に志願し、海軍航空隊に配属された。 |
| 1945年の敗戦後、父が疎開していた富山県に引き揚げ、父の実家で農作業を手伝ったり、浮遊機雷の除去に従事したりした。 |
| 1946年、金沢逓信講習所業務科に入学し、1948年に卒業すると、富山県の郵便局に勤務した。 |
労働運動に入る
| 1949年から労働運動に参加するようになり、全逓信従業員組合(全逓)の民主化同盟派の活動家として、日本共産党系の組合員と激しく対立した。 |
| 同年、逓信省が郵政省と電気通信省に分かれると、全逓も全逓信労働組合(全逓)と全国電気通信労働組合(全電通)に分かれることとなった。 |
| 山岸は、全電通に所属することとなり、1950年、全電通富山県支部書記長となった。 |
| 1951年、大阪中央電報局に転勤になったのを期に、活動の場所を大阪に移し、1953年には全電通大阪電信支部書記長、翌年には全電通近畿地方本部執行委員、さらに翌年には全電通中央本部執行委員と全電通内部で順調に昇進していった。 |
| しかし、1957年、大阪中央電報局で機械化に伴う人員整理が問題化したため、大阪に戻り、全電通大阪電信支部書記長(翌年に委員長)として事態の解決にあたった。 |
| 以後、大阪で全電通の指導者として、電電公社の合理化問題に取り組み、不要になった交換手を解雇ではなく、配置転換とするよう、電電公社側と粘り強く交渉を続けた。 |
| 1967年、全電通中央本部に復帰し、1982年には全電通委員長に選出された。 |
労働戦線統一
| 1970年、全逓委員長の宝樹文彦が労働戦線統一を提唱する。 |
| この呼びかけはうまくいかなかったが、山岸もまた労働戦線が総評・社会党ブロックと同盟・民社党ブロックに分かれて対立することが続けば、労働組合の発言力は弱いまま、自由民主党(自民党)に取って代わることのできる野党がいつまでも育たない、と考えて労働戦線統一のために動いた。 |
| 労働戦線統一のためには、西側世界での世界的な労働組合の連合体である国際自由労連に加盟しておく必要があると考えた山岸は、1978年に全電通を国際自由労連に加盟させた。 |
| さらに、全電通のPTTI加盟も実現し、1985年にはその会長に就任している。 |
| こうして、全電通と国際的な労働団体との関係を深め、全電通の発言力を強化する一方、1978年には労働社会問題研究センターを立ち上げ、森田実を編集長とする『社会労働評論』を11年間にわたって発行し、国内で労働戦線統一の機運を高めるよう尽力した。 |
| 1985年の電電公社の民営化に際しては、全電通の組織を温存するため、「民営化賛成・分割反対」の姿勢で政府に臨み、NTTの分割を阻止した。 |
| 一方、国鉄労働組合は、最後まで「分割民営化両方反対」の強硬路線を貫いたため、強硬路線についていけない組合員の離反を招き、事実上崩壊した。 |
| 1987年、民間労組が先行して、全日本民間労働組合連合会を結成すると、その副会長・会長代理に選出され、1989年、官公労も含んだ日本労働組合総連合会(連合)が結成されると、その初代会長に選出された。 |
政界再編
| 組合員800万人の巨大組織の指導者となった山岸はその組織力を背景に、政権交代のある政治制度を構築するための政治改革に乗り出した。 |
| 1989年の参議院選挙では、日本社会党・公明党・民社党の三党協力のための受け皿として、連合の会を結成して参加させ、11名を当選させ、社公民連合を推し進めた。 |
| しかし、PKO協力法の審議で社会党が強硬路線をとったため、公明党は連合の会の支援から手を引き、1992年の参議院選挙では森田健作一人の当選にとどまった。 |
| 1991年の東京都知事選では、自民党が推す磯村尚徳に社公民三党が相乗りすることで、社公民の関係を強化しようと考えた。 |
| しかし、社会党の土井たか子委員長は「(磯村擁立を進めたのが自民党の小沢一郎なので)反小沢」を理由に自民との相乗りを拒み、このもくろみも失敗した。 |
| 1992年、自民党竹下派が分裂すると、小沢一郎・羽田孜が山岸に接近し、野党結集による政権交代のための協力を要請した。 |
| 山岸の仲介で、社公民三党や社会民主連合(社民連)は小沢・羽田と共に非自民・反共産政権(山岸は自民党以上に共産党を嫌っていて、あえてこの表現をしていた)を樹立することに合意し、新政権の政策も練り上げられた。 |
| また、連立政権の障害となり得る強固な護憲派社会党議員については選挙協力をしないなど「選別」を行い、露骨に圧力を掛けた。 |
| 標的にされた代表的な議員としては上田哲がいる。 |
| 1993年の総選挙では、自民党も野党連合も過半数を制することは出来ず、日本新党・新党さきがけがキャスティングヴォートを握った。 |
| 両党は小選挙区比例代表並立制の導入を協力の条件とした。 |
| 山岸は小選挙区比例代表並立制の導入は社会党を崩壊に導くと危惧したが、与党間の候補者調整が「解毒剤」の役割を果たすと判断し、日本新党・新党さきがけとの連立を社会党に呼びかけた。 |
| こうして、細川内閣が成立した。 |
| しかし、細川護熙首相は1994年に辞任し、羽田内閣が成立した。 |
| 山岸は、社会党を追い詰めないよう、羽田孜首相に進言したが、社会党以外の連立与党が新会派「改新」を結成し、露骨に社会党はずしの姿勢を見せたため、社会党は連立を離脱した。 |
| 山岸は、羽田首相に対しては、首相以外の大臣総入れ替え、社会党に対しては連立復帰を促した。 |
| しかし、山岸の外遊中に、社会党の村山、野坂等村山グループは自民党に働きかけて、村山富市を首班とする内閣を成立させてしまった。 |
| 背景には連合内部における派閥対立があったとされている。 |
| 不倶戴天の敵だった自民党と社会党が連立内閣を構成することに山岸は最初から反対だったため、村山内閣に対して、連合は是々非々の対応を決定し、全面的な支援をおこなわなかった。 |
| 後に、テレビ番組の収録中に自民党議員から自社連立の話は社会党からもたらされたことを聞かされた山岸は番組中に烈火の如く怒っている。 |
| なお山岸自身後に細川政権については「小沢一郎に毒饅頭を食わされた。 |
| 」と小沢を批判するコメントをしている。 |
| 1994年に連合会長を辞任したがその後も民主党結党に影響力を行使するなど労働界の実力者として、今でも有力政治家が接触を求めてくるという。 |
| 一方、改憲容認・反共主義を採ったことや、「連合」の成立で労働運動が自民に丸め込まれたという考えから、左派を中心に現在でも批判は少なくない。 |
| かつて社会党員でもあった山岸は、細川政権下で開かれた社会党大会に出席しようとしたところ、不満を持った党員から背広を引きちぎられるほどの妨害を受けた。 |
江田父子との交流
| 山岸は1954年に左派社会党に入党し、1960年代からは社会党江田三郎派の活動家として活躍し、大阪を江田派の拠点とするために尽力している。 |
| 1977年、江田三郎が社会党を離党したとき、山岸は江田の離党に反対で、江田と一時連絡をとらなかった。 |
| しかし、その直後、江田が急死したため、山岸は江田三郎の晩年に相談に乗ってあげなかったことを悔い、贖罪のために江田三郎の息子の江田五月や江田五月が党首をつとめる社民連の国会議員の選挙の面倒を見た。 |
| 1993年、細川内閣が発足したとき、連立与党の党首は全員入閣することが決まったが、社民連は議席数が少なかったため、江田五月の入閣は見送られていた。 |
| 山岸は連立与党の実力者であった小沢一郎にかけあって、江田五月を科学技術庁長官として入閣させてもらうことに成功した。 |
| しかし、江田五月はそのポストを「つまらない」と不満を示したため、山岸は江田五月の慢心を厳しくいさめたと言う。 |
参考文献
| 『我かく闘えり』朝日新聞社、1995年。 |
| 『「連立」仕掛人』講談社、1995年。 |
| 『「連立政権時代」を斬る』読売新聞社、1995年ISBN4643951109。 |
| 『山岸章オーラルヒストリー』(政策研究大学院大学C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト,2005年)。 |
関連項目
| 日本労働組合総連合会。 |
| 情報通信産業労働組合連合会。 |
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1944年
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海軍甲種予科練習生に志願し、海軍航空隊に配... |
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1946年
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金沢逓信講習所業務科に入学し、1948年に卒業... |
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