| 昭和20年(1945年)8月9日ソ連軍が満州に侵攻開始。 |
| 満鉄は関東軍大陸鉄道司令官の指揮下に入る。 |
| 8月15日終戦の詔勅が渙発される。 |
| 8月17日 竹田宮恒徳王が東京から当時の満州国首都新京(現・長春)に飛来し、関東軍に終戦の勅旨を伝える。 |
| 大陸鉄道司令部は任務を停止。 |
| この日、午前10時、山崎は関東軍司令部に山田乙三司令官を訪問。 |
| 山田は丸腰姿で山崎に、「既に一切の権限を失った者として、今後満鉄のことはすべて総裁に任せる以外に無い」と告げたという。 |
| これにより、満鉄総裁は満鉄の全機能を挙げて終戦処理に邁進することとなり、重大な責任を負うこととなる。 |
| 8月20日ソ連軍司令官ミハイル・コワリョフ大将、新京駐屯軍司令官カルロフ少将が新京に到着。 |
| その事態を受け、山崎は全満鉄社員に以下のような布告を発する。 |
| その内容は概略次の通りである。 |
| 関東軍は天皇の意思を尊重し、全軍の戦闘行動を停止した。 |
| 私も天皇陛下の意思を尊重して輸送の秩序を維持し、在満邦人と満洲の安寧保全に努力したい。 |
| 鉄道、生産施設の管理、社員の保護に関しては、私は全責任をもってソ連軍との交渉に当たる。 |
| 各員は現職に止まり、輸送及生産機能の確保に努めてほしい。 |
| 社員とその家族の保護に関しては、現地防衛軍と日本人保護機関と協調して、万策を尽くす。 |
| ソ連の進駐に当っては、天皇の意志を尊重し一切の軽挙を戒め、ソ連の希望にそうようにしてほしい。 |
| 大東亜戦争四年間の各員の献身奮闘と、日ソ戦争状態勃発後に於ける勇戦奮闘に対し、心から感謝の意を表すると共に皇軍戦没将士と殉職社員の霊を慰めてくれることを切望する。 |
| この日夕刻、山崎は社員を本部屋上に集め、社歌斉唱の裡に最後の社旗降納を行なった。 |
| 午後6時、関東軍山田司令官はソ連軍司令官コバリョフと会見し、停戦協定成立。 |
| この日、山崎もコバリョフに会見し、コバリョフより満鉄従業員はみな現職に止まれとの指示があった。 |
| これに対し、山崎はこれについての総裁としての要請事項をメモにして渡した。 |
| 同日23時、山崎は再びコバリョフと会見し、。 |
| 満鉄は元の体制のままでソ連軍に協力する。 |
| ソ連側は満鉄社員とその家族の生命財産を保障する。 |
| ソ連側は従業員に給与する。 |
| という約束をとりつけた。 |
| これにより、混乱した満洲に一定の秩序がもたらされた。 |
| 8月27日、中華民国およびソビエト連邦両国の放送は「中ソ友好同盟条約」を発表した。 |
| この中には、南満州鉄道の後身たる「中国長春鉄路」の両国による30年間の共同経営が含まれていた。 |
| これは満鉄の解体を意味した。 |
| 発効は12月3日の予定であった。 |
| 8月31日、満鉄大連本社で中国長春鉄路のソ連側接収委員一行と在大連箇所長団とが接収に関する会談を行い、合意が成立。 |
| 9月2日 満洲奥地に発生した大量の日本人難民を撫順炭鉱に収容する旨、撫順炭鉱に伝える。 |
| 9月12日 哈爾濱駐在交通人民委員部ジュラヴィヨフ少将から全満の鉄道の管理形態を示される。 |
| 9月22日 中国長春鉄路のソ連代表カルギン中将が長春に着任。 |
| 中国長春鉄路理事会が長春におかれる。 |
| カルギンが副理事長に、ジュラヴィヨフが同管理局長に任命された。 |
| カルギン中将からこの日、山崎総裁に次の指示が出された。 |
| 本日午前11時以降、哈爾濱・旅順間の鉄道幹線は中ソの協定によりカルギンが管理する。 |
| 重要事項はカルギンの指揮を受けられたい。 |
| これが、実質的な満鉄の終焉だった。 |
| 山崎は43人の社員を各局に主席監察および補佐として送り込むとともに、治安の確保について強硬に要求した。 |
| この日、山崎は全社員に長文の訓示を出し、綱紀の粛正および道義の確立を説いた。 |
| 9月23日 ソ連交通関係者と満鉄の担当者との間で引継・引渡しがはじまった。 |
| 9月28日 満鉄新京本部の玄関の標札をはずす。 |
| 施設を動かすためには元の満鉄社員を利用せざるを得なかったわけである。 |
| ここに日本人留用、すなわち満鉄職員をただちに帰国させず現地に留め、鉄道運行の業務に従事させる必要が起こった。 |
| 山崎自身、昭和22年(1947年)まで留用される。 |
| 元満鉄社員全員の留用が終わったのは昭和23年(1948年)6月であった。 |