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つながりの強いひと
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山川健次郎
山川健次郎(やまかわけんじろう、嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日)-1931年(昭和6年)6月26日)は日本の教育者。東京帝国大学で物理学を教える。東京帝国大学、... |
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会津藩
父
陸奥国(後の岩代国)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、... |
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遠山茂樹
日本の歴史学者。専門は日本近代史。『遠山茂樹著作集』(全9巻、岩波書店刊)がある。 |
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松平容保
江戸時代末期の大名・陸奥国会津藩9代目藩主であり、また最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主徳川治保の子孫である。京都守護職。美濃国高須藩主・松平義... |
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谷干城
幕末から明治にかけて活躍した、土佐藩士、軍人、政治家。通称は申太郎、守部。号は隈山。第2代学習院院長。東京学士会院会員、後に帝国学士院会員。官位は陸... |
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佐川官兵衛
幕末の武士(会津藩家老)、明治時代の警察官。諱は勝、直清。 |
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金子光晴
愛知県津島市生まれの詩人。本名は安和。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいる。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文... |
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家老
父
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。 |
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柴五郎
日本の陸軍軍人。軍事参議官・台湾軍司令官・東京衛戍総督・第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。義和団の乱の防衛戦で賞賛を受け、欧米... |
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藤田五郎
藤田五郎(ふじたごろう) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] (1915―1952) 経済史学者。広島市に生まれる。広島高等学校を経て、1939年(昭和14)東京 帝国... |
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山田顕義
日本の武士(長州藩士)、政治家、陸軍軍人。通称は市之允、諱は顕孝、のち顕義と改めた。位階勲等は陸軍中将・正二位・勲一等。爵位は伯爵。初代司法大臣。「... |
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立見尚文
立見尚文(たつみなおふみ、弘化2年7月19日(1845年8月21日)-明治40年(1907年)3月6日)。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。桑名藩士、日本の裁判官... |
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大山巌
日本の武士、政治家、元老、軍人。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活... |
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奥保鞏
明治の大日本帝国陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。 |
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西郷頼母
江戸時代後期、幕末期の会津藩の家老。家禄1700石。父は西郷近思(ちかし)、母は律子、兄弟多数。妻は千重子。子は長女細布子、次女瀑布子、長男吉十郎有鄰... |
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中村彰彦
小説家。直木賞受賞。栃木県栃木市出身。本名「加藤保栄」。主に、歴史小説・時代小説を中心に執筆している。 |
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斎藤一
幕末の武士。新選組隊士。明治時代の警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。新選組では副長助勤、三番組組長、撃剣師範を務める。御陵衛士にも入隊。... |
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孝明天皇
江戸時代末期に在位した第121代天皇。在位は1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐1867年1月30日(慶応2年12月25日)。幼称は煕宮(ひろのみや)。諱は統仁(おさ... |
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プロフィール
山川浩(やまかわひろし、1845年12月4日(弘化2年11月6日)-1898年(明治31年)2月4日)は幕末の武士( 会津藩家老、斗南藩大参事)、明治時代の陸軍軍人、政治家、 学校長。官位は陸軍少将男爵。陸軍省総務局制規課長を最後に予備役。以後は貴族院議員。
幕末
| 父は会津藩国家老・山川重固、母は会津藩家臣・西郷近登之の娘・えん。 |
| 姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に大山捨松らがいる。 |
| 初名を大蔵(おおくら)といい、与七郎、常盤とも称した。 |
| 諱は重栄、字は士亮。 |
| 浩は明治以降の改名である。 |
| 万延元年(1860年)に父が死去したため家督を継ぐ。 |
| 家禄は1000石だった『慶應年間会津藩士人名録』勉強堂書店。 |
| 文久2年(1862年)に藩主・松平容保が京都守護職を拝命したのに伴い京都へ同行する。 |
| 4年後の慶応2年(1866年)に幕府の使者と同行しロシアに渡航。 |
| ヨーロッパ諸国を見聞した大蔵は、世界の大勢を知り攘夷の非を悟ったといわれている。 |
| 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津と転戦。 |
| この頃に会津藩若年寄となり戦費の調達、藩兵の西洋化などに尽力した。 |
| 会津戦争では官軍に所属する佐賀藩兵を破るという武功を挙げる。 |
| 8月22日に会津若松城が包囲されていることを知ると、会津地方の伝統芸能である彼岸獅子を先頭で舞わせながら加勢を入城させるという離れ業を演じてみせた。 |
| この功績によって防衛総督に任じられるが、それでも多勢に無勢は明らかで、会津若松城は落城。 |
| 妻のトセも爆死した。 |
| その後禁固謹慎の身となる。 |
| 明治3年(1870年)に斗南藩の大参事(家老職)となるが、藩士総数に対して実収は少なく、浩自身も妹・咲子(後の捨松)を函館に口減らし同然に里子に出すなどの苦労を重ねる。 |
明治時代
| 廃藩置県後は地元の青森県に出仕していたが、戊辰戦争での活躍を見ていた谷干城の推薦により明治4年(1871年)には陸軍に出仕。 |
| 明治6年(1873年)に陸軍少佐に進級して熊本鎮台に移り、翌年の佐賀の乱の鎮圧に活躍する。 |
| 明治10年(1877年)の西南戦争では盟友でもあった谷干城の救出に活躍し、この功績で明治13年(1880年)には陸軍大佐に進級した。 |
| しかしこの時の怪我が元で後に左手の自由を失っている。 |
| 浩は西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と考えていたらしく「薩摩人みよや東の丈夫(ますらお)が提げ佩く太刀の利(と)きか鈍きか」という歌を残している。 |
| 明治18年(1885年)、森有礼の命により陸軍に在籍したまま東京高等師範学校及びその附属学校(現・筑波大学附属小学校及び筑波大学附属中学校・高等学校)の校長と女子高等師範学校校長に任命された。 |
| また東京高師附属中学の校友会である「桐陰会」の会長も務めた。 |
| 明治20年(1887年)、高等師範学校の附属学校について次のように述べている。 |
| 当時の授業料は五十銭で、生徒は六百数十名だったが、授業料を値上げしてもほとんどが在学を望んだため、増収により良い教師を招聘して大いに校風を振起することができた。 |
| しかも山川校長は軍人だから規律が厳しかったので、学校は秩序整然としたものになった。 |
| その後陸軍少将に進級。 |
| 明治23年(1890年)には貴族院議員に勅選された。 |
| 浩は谷干城、曾我祐準とともに院内会派・懇話会を旗揚げして「貴族院三将軍」の異名をとった。 |
| 晩年には軍務や教育の分野での功績により男爵に叙せられる。 |
| 同じ年に行われた日本最初の衆議院議員選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補したが。 |
| 対立候補に東海散士がいたが共に-->落選している当選者は山口千代作-->。 |
| 妹の大山捨松が旧友アリス・ベーコンに送った手紙や柴五郎の回顧などによると、元家老であった浩の元には常に元会津藩関係者が寄宿しており、また出世した浩に対して一種のたかりのように仕送りをせがむv親戚もいたようで、晩年まで生活は非常に苦しかったという。 |
| また浩は生涯にわたって忠誠を会津藩に尽くしたが、一方で非常に反骨心のある人物であり、会津藩の藩学だった朱子学は嫌いで陽明学を学んでいたという一面があった。 |
| なお浩は幕末の一級史料である『京都守護職始末』を記したことで有名だが、実は浩自身は草稿の段階で死去したため弟の山川健次郎がこれを完成させたというのが今日では定説となっている。 |
| この本で初めて「孝明天皇より松平容保に渡された勤王の詔勅」なる物が明らかにされ、出版前にこれを見て驚いた三浦梧楼が口止め料として松平家に3万円という当時としては前代未聞の大金を渡している。 |
| しかしそのために『京都守護職始末』自体は明治44年(1911年)まで出版が出来なくなった。 |
| 鳥羽伏見の戦いで負傷した山川は他数千人の幕兵らとともに紀州藩を頼って南に敗走した。 |
| 紀伊家は敗残兵を好意的に迎え入れ、浩も傷が癒えてから紀州藩の手配した船で江戸に帰り着いた。 |
| 和歌山では近郷・御坊の「中屋旅館」に滞在したが、手厚い看護を受けたことを長く覚えていたのであろう、感謝の意をこめて明治15年になって九谷焼大皿2枚を同旅館に贈っている。 |
| -->。 |
関連項目
| 斎藤一元新選組三番隊組長。 |
| 明治維新後、警視庁の警察官となり、西南戦争で戦功を上げる。 |
| 退職後は東京高等師範学校、東京女子高等師範学校に守衛として勤務。 |
| 山川は斎藤の婚儀の下仲人を務め、長男の命名をするなど、晩年まで親交があった。 |
| 佐川官兵衛山川と同時期の会津藩家老。 |
| 明治維新後、警視庁の警察官となり、西南戦争で奮戦するも、被弾して戦死。 |
| 佐川も斎藤の婚儀の際に下仲人を務めている。 |
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1845年
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山川 浩(やまかわ ひろし、(弘化2年11月6日... |
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1860年
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父が死去したため家督を継ぐ |
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