| 1968年のドラフト1位で広島東洋カープに入団。 |
| 入団当初の背番号は27だったが、山内一弘引退後、背番号8を譲り受けた。 |
| 1969年4月12日の開幕戦で6番打者・中堅手としてスタメン出場し、初出場を果たす。 |
| レギュラーの座を勝ち取ると、シーズン後半には4番打者などのクリーンナップを任されるようになり、1970年は3番打者、1971年は主に5番打者、1972年は主に1番打者や5番打者を務めるなど、チームの主力として活躍した。 |
| しかし打撃の成績自体は特筆されるようなものがなく、長らく平凡な中距離打者として脇を固めていた。 |
| その後、根本陸夫、上田利治、関根潤三、広岡達朗ら指導者にも恵まれ、徐々に成長を見せる。 |
| 1974年には主に3番打者を務め、打率.275、28本塁打、74打点という好成績を残した。 |
| 同年シーズンオフ、姓名判断で「浩司という名前は勝負師に向かない」と言われたため、名前を「浩司」から「浩二」に改名した。 |
| 翌年の1975年6月下旬から4番打者に定着。 |
| オールスターゲーム第1戦では、セ・リーグの3番として4番王貞治、5番田淵幸一とクリーンアップを組み、6番に入った衣笠祥雄と共に二打席連続アベック本塁打を放った。 |
| このアベック本塁打は、オールスターゲームの名場面としてよく紹介される。 |
| 同年シーズンは好調を維持し、首位打者を中日の井上弘昭と最後まで争い、広島と中日の最終戦で打率首位の自身は欠場して、古葉竹識監督が井上を満塁でも敬遠して打率首位を守り、首位打者を獲得した。 |
| 最終的に打率.319、30本塁打、84打点、24盗塁という自己最高の成績を記録し、自身初のシーズン打率3割とシーズン30本塁打を達成。 |
| チーム初優勝に大きく貢献すると共に、シーズンMVPに輝いた。 |
| 優勝を決めた10月15日の対巨人戦(後楽園)では人目もはばからず男泣きし、広島の人々から郷土の英雄として「ミスター赤ヘル」の二つ名を送られた。 |
| 打者として本格的に才能が開花したのは30代になってからであった。 |
| 開花したきっかけは、法政大学時代から持病となっていた腰痛である。 |
| 年が経つにつれてそれがひどくなり、自らは休養を求めたが、古葉監督が休養を許さなかったため、出場を続けた。 |
| そうした中で、山本は腰にできるだけ負担をかけずに球を遠くに飛ばす広角打法を習得。 |
| これにより右翼への流し打ち本塁打の名手になり、長距離打者として開眼した。 |
| 1977年から5年連続40本塁打を記録。 |
| この記録を持つのは王貞治と山本のみである。 |
| 1978年、1980年、1981年、1983年と4度の本塁打王に輝き、打点王も3度獲得した。 |
| また、強肩巧守のセンターとしても鳴らし、1972年から1981年までゴールデングラブ賞を10年連続で受賞。 |
| 通算10回受賞はセ・リーグの外野手としては歴代最多である。 |
| 外野手として残した通算4637刺殺、通算154補殺、通算4830守備機会は、それぞれセ・リーグ記録であり、日本プロ野球歴代でも2位に位置する。 |
| 1975年には302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立しており、守備機会の多さの割に通算失策数も39と少なく、技術の高い捕球や正確無比な送球で知られた。 |
| 足も速く、11年連続でシーズン2桁盗塁を記録しており、通算でも231個の盗塁を記録している。 |
| このように走攻守の三拍子揃った選手として、衣笠祥雄、三村敏之、水谷実雄らと共に広島黄金時代を築いた。 |
| 1980年前後から足や肩に陰りが見え始めたことや、長嶋清幸と山崎隆造が台頭してきたこともあり、1983年より左翼手にコンバート。 |
| 同年4月30日の対阪神戦(甲子園)ではサイクル安打を記録した。 |
| 1984年より打撃コーチを兼任し、この年はタイトルを逃したものの好成績を残して日本一に貢献、王貞治(現役最終年の1980年当時)を抜いてこの頃の球界最高額となる年俸8500万円で契約した。 |
| 1985年には史上2人目の通算500本塁打・200盗塁を達成(この記録を持つのは張本勲、山本、衣笠の3人のみ)。 |
| 1986年、リーグ優勝を花道に、40歳で現役引退した。 |
| この年、チームは130試合制の129試合目にリーグ優勝を決め、日本シリーズも第8戦まで行ったため、日本シリーズ第8戦が事実上の引退試合となった。 |
| 試合には敗れ、西武に優勝を譲ったが、広島ナインから惜別の胴上げを受け広島市民球場は万来の浩二コールに包まれた。 |
| 翌日の引退会見の際、涙ながらに「山本浩二は幸せな男です」と述べた。 |
| 名の通った大選手でも、プロ入り当初や現役晩年は出場が少なかったり成績が振るわなかったりするが、山本は1年目から引退年までほぼ全試合に出場し、成績も極端に下降することはなかった。 |
| 最終年の1986年にも打率.276を記録し、27本の本塁打を放っている。 |
| 早すぎる引退に見えるが、持病の腰痛の悪化が大きかったとされる。 |
| 7度にわたる打点・本塁打のタイトルはいずれも30歳以降であり、通算本塁打の7割を30代以降で放つなど、典型的な大器晩成型の選手であった。 |
| その功績を讃え、背番号「8」は広島球団史上初の永久欠番となっている。 |