| 神奈川県足柄下郡湯河原町に疎開により家族で移住。 |
| 神奈川県立小田原高等学校を経て、1958年に早稲田大学教育学部国文学科を卒業。 |
| 教師になって休みの間に小説を書きたいと思っていたが、就職難で教師の口がなかった。 |
| 大学の就職課で松竹大船が助監督を募集していると聞かされ、松竹を受験する『シナリオ』2007年2月号(シナリオ作家協会)。 |
| 松竹に入社後、木下惠介監督に師事。 |
| 木下には現在も敬愛の念を抱いているという『逃げていく街』(新潮文庫)。 |
| 1960年代前半から、木下恵介の映画をテレビドラマに脚色する仕事を始めた。 |
| 1965年に退社して、フリーの脚本家になる。 |
| 木下に「連続(ドラマ)を書いてみろ」と言われて、1968年に“木下惠介アワー”枠の『3人家族』を執筆。 |
| 「プロになろう。 |
| 絶対当てよう」という意気込みで臨み、高視聴率を上げる。 |
| 翌1969年の『パンとあこがれ』に携わって、初めて「テレビは面白い!」と思ったという『ドラマ』2003年6月号(映人社)。 |
| 木下に「書きたいように書いていいよ」と言われて発表した『それぞれの秋』(1973年)『ドラマ』2003年6月号で、平凡な家庭が崩壊の危機に直面するさまをシリアスに描き、芸術選奨新人賞受賞。 |
| 1976年、NHKが脚本家の名前を冠した脚本家シリーズを開始し、その先発に選ばれる。 |
| 「脚本家の名前が最初に出るということは後々みんなに影響すると思ってね(…)緊張してやった仕事」と回想している『シナリオ』2007年2月号。 |
| “山田太一シリーズ”として発表された『男たちの旅路』は人気を博し、1982年まで断続的に継続した。 |
| なかでも1979年の第4部中のエピソード『車輪の一歩』は、大きな反響を呼んだ。 |
| 東京新聞に連載した小説を自身の脚色でテレビ化した『岸辺のアルバム』(1977年)が、高い評価を受ける。 |
| 「戦後の日本の社会が一つの家族にどんな影響を与えてきただろうかということをプラスとマイナス両方込めて書いてみよう」『ドラマ』2003年6月号という意欲を持って執筆。 |
| 中流家庭の崩壊をリアルに描き、放送史に残る名作とされる。 |
| 1970年代には倉本聰、向田邦子とともに「シナリオライター御三家」と呼ばれていた。 |
| 1980年に大河ドラマ『獅子の時代』を発表。 |
| 大河ドラマとしては初めてのオリジナル作品となった。 |
| 作品は好評を博したものの、「二度と大河はやらない(…)僕には向いてない」と思ったそうで『ドラマ』2003年6月号、ふたたび大河ドラマに登板することはなかった。 |
| 『想い出づくり』(1981年)は24歳の女性たちを主軸にした群像ドラマで、「今考えると嘘みたいだけれども、主人公が複数いるドラマがほとんどなかったんです(…)それで、どの人が主人公かわからないような作品を書いてみようという野心があった」という。 |
| 裏番組が倉本聰脚本『北の国から』で、二大ライターの対決としても話題になった。 |
| 本人は「そういう形で競争させられるのは、情けない思い」と述懐している『キネマ旬報』2003年6月下旬号(キネマ旬報社)。 |
| 『沿線地図』(1979年)などで笠智衆を脇役に起用していたが、「笠智衆さんを主役に仕事をしたいという思いがあって」、『ながらえば』(1982年)を皮切りに『今朝の秋』(1987年)など笠主演のドラマを4本執筆。 |
| 「他の人も笠さんを獲得したがっている時に、僕が掴まえてしまうんだから(…)いいものにしなきゃという思いは非常に強かった」『ドラマ』2003年6月号と回想する。 |
| 『早春スケッチブック』(1983年)は、「小市民を非常に否定する存在を出して、その否定に(小市民は)どれくらい立ち向かうことが出来るか」『ドラマ』2003年6月号を描くという挑戦的な意図で臨んだ。 |
| 視聴率は低迷したが、視聴者からの手紙や電話などで大きな反響を呼んだ。 |
| 同じ1983年にスタートした『ふぞろいの林檎たち』は、大学生の青春群像をリアルに描いて、1997年まで継続する人気シリーズとなる。 |
| 1983年の『ラヴ』で、舞台脚本を初めて執筆。 |
| 以後はテレビ脚本のほかに、戯曲、小説も平行して発表している。 |
| ラフカディオ・ハーンを主人公にした『日本の面影』(1984年)で、第2回向田邦子賞受賞。 |
| 『日本の面影』は1993年に自身の脚色で舞台化されて再演を重ね、2001年にはダブリンとロンドンでも上演されている。 |
| 1988年に、小説『異人たちとの夏』で山本周五郎賞を受賞。 |
| 1990年代から2000年代には「連続ものをやめようという気持になってきた。 |
| 連続の企画を実現させていくプロセスが、自分とちょっと合わないなという気がして」『ドラマ』2003年6月号という思いがあったようだが、2009年の『ありふれた奇跡』で12年ぶりに連続ドラマに復帰した。 |
| 「山田太一ドラマ」「山田太一ドラマスペシャル」と作品のクレジットに冠されることが多く、現在のテレビ界において作品性が評価されている数少ない脚本家である。 |