| 1931年、大阪府豊中市生まれ。 |
| 満鉄のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした「時代を駆ける:山田洋次:YOJIYAMADA(2)」『毎日新聞』2010年1月19日、12版、9面。 |
| 終戦後の1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。 |
| 流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している。 |
| 1943年、東京都立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)に入学するが、同年5月、空襲を避け、中国の大連へ移る。 |
| 1947年、大連から引き揚げ、旧制宇部中学校(山口県立宇部高等学校)3年に編入する。 |
| 翌年、旧制山口高等学校(現在の山口大学)に入学するが、在学中に学制改革を経験する「私の履歴書 山田洋次⑧⑪」『日本経済新聞』1996年10月8、11日付。 |
| 1950年、東京都立小山台高等学校卒業、東京大学法学部に入学。 |
| 怠学による出席日数不足で中退するところだったが、1954年に卒業して松竹に補欠入社する。 |
| 野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた「時代を駆ける:山田洋次:YOJIYAMADA(4)」『毎日新聞』2010年1月25日、13版、5面。 |
| 1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした「時代を駆ける:山田洋次:YOJIYAMADA(1)」『毎日新聞』2010年1月18日、13版、5面。 |
| 大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。 |
| ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立して行く中、松竹大船調路線の後継者として『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』等のコメディを中心とした作品で企業内監督の道を歩む「時代を駆ける:山田洋次:YOJIYAMADA(5)」『毎日新聞』2010年1月26日、12版、10面。 |
| 当初はハナ肇主演作品が非常に多く、才能を見抜く名人であるハナのご指名監督の感があった。 |
| 次第に喜劇作家としての評価が高まり、何本かの作品がキネマ旬報ベストテン入りするが、ヒットには恵まれない状態が続いた。 |
| 1969年、『男はつらいよ』を発表。 |
| 当初は観客動員も地味であったが高い評判を呼んだ。 |
| 輪番であった監督が山田単独となる頃から尻上がりに観客も増え、その後27年間に全48作が製作される大ヒットシリーズとなり、毎年お盆と暮れの興行は日本人の風物詩、国民的映画とまで言われた。 |
| しかし、車寅次郎役である渥美清の体調が優れなくなってからは、年2回作られていた『男はつらいよ』シリーズを年1回に減らし、後に甥の満男の出番を増やして寅次郎の出番を減らす決断をした。 |
| 最終の第47作と第48作は、ドクターストップがあったものの無理に出演してもらったものである。 |
| 渥美は公私混同を嫌っていたため、渥美の家族や個人的な連絡先は知らなかったと言う。 |
| 知るようになったのは寅さんとのお別れ会の後である。 |
| 渥美の死去によって『男はつらいよ』シリーズを失った4年後には大船撮影所が閉鎖され、監督としてメガホンを執る機会も減ってしまった。 |
| シリーズの合間をぬって2、3年おきに『家族』『同胞』など、ややシリアスな作品も、おおむねオリジナル脚本で発表。 |
| いずれも高い評価と手堅い成績を収め、山田の映画作家としての地位を固めていく。 |
| ほとんどが倍賞千恵子主演であり、『男はつらいよ』のさくら役、シリーズ開始以前の多くの主演作を含めると、実に六十数本で主演、準主演に迎えている。 |
| この世界にも稀な親密さは、ある意味、山田が「生涯同じ歌を繰り返し歌い続ける」タイプの作家である証左ともなっている。 |
| 2002年、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』を発表する。 |
| 山田にとって、『運がよけりゃ』に続く2度目の時代劇『たそがれ清兵衛』を、「山田監督初めての時代劇」と紹介するのは誤りである。 |
| ただし『運が良けりゃ』は、「時代喜劇」とも呼ばれるもので、設定は江戸時代であるものの、筋のメインは喜劇であり、正統派の時代劇ではない。 |
| よって、『たそがれ清兵衛』を「山田監督の初めての時代劇」というのも、全くの誤りとは言えない。 |
| であり、藤沢作品を初映画化したものであった。 |
| 他の時代劇では無視され続けてきた“位の低い”武士の苦悩を描いた物語である。 |
| 構想に10年を掛け時代考証に徹底して拘った。 |
| 登場人物が綺麗な新品の服ではなく、着古した古着を着ていたり、毎日月代を剃るはずが無いから、剃った部分に髪が生えてくる等の実に細かい部分をリアルに丹念に描き、「第76回アカデミー賞」外国語映画部門にノミネートされた。 |
| 2004年、再び藤沢原作の時代劇『隠し剣鬼の爪』を発表し、「第7回ジンバブエ国際映画祭」最優秀作品賞を受賞した。 |
| 2004年1月に横綱審議委員に就任。 |
| 2006年には「部員不足解消に役立つなら」と、OBである東京大学相撲部の名誉顧問となった。 |
| 京都大学との交流戦を観戦し、「初心者にしか見えない学生が鼻血を出しながら立ち向かう姿が愛しい」と興奮した。 |
| 2007年、自身の監督作『幸福の黄色いハンカチ』がハリウッドでリメイクされる事が決定。 |
| 主人公はオスカー俳優・ウィリアム・ハートが演じる。 |
| 2008年、小津安二郎以来、映画監督で二人目の芸術院会員となる。 |
| 2010年、小津映画の『麦秋』を舞台化。 |
| 初の舞台演出。 |
| 2010年、JR東日本が動態復元する蒸気機関車C6120の復元工事の作業をドキュメンタリー映像として記録開始。 |
| 父が鉄道ファンであった影響から幼少時より山田自身も鉄道ファンとなり、2011年6月4日の復活運転開始までの間、収録を行った。 |
| 復活運転開始の日には、高崎駅で開催された復活記念セレモニーのスペシャルゲストとして招かれ、「東北で活躍したC61が復活したことには、大きな意義がある」などといったメッセージを送り、東日本大震災からの日本復興に向かう象徴の一つとするC6120の復活を祝った。 |
| なおこの作品は、同2011年7月16日にNHKスペシャル『復活〜山田洋次・SLを撮る〜』と題してテレビ放送された{{PDFlink| |
| 2011年、監督生活50周年記念作として『東京物語』のリメイク作『東京家族』の製作を予定していたが、脚本など東日本大震災の経験を踏まえた作品にしたいという山田の意向により、製作の延期を発表 |