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つながりの強いひと
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北原白秋
作品提供
日本の詩人、童謡作家、歌人。本名は北原隆吉(きたはらりゅうきち)。詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作... |
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三木露風
三木露風(みきろふう、1889年(明治22年)6月23日-1964年(昭和39年)12月29日)は日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木操(みきみさお)。異父... |
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野口雨情
日本の詩人、童謡・民謡作詞家。本名は野口英吉。茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)出身。 |
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中山晋平
作曲家。長野県下高井郡日野村(現・中野市)出身。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。多くの作品が、現在も抒情歌または日本歌曲とし... |
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瀧廉太郎
日本の音楽家、作曲家。明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。 |
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山田耕作
山田耕作は1886(明治19年)6月9日東京に生まれ、1904年東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)入学。1908年同声楽科卒業。これは当時芸大にまだ作曲科... |
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團伊玖磨
日本を代表するクラシック音楽の作曲家であり、エッセイストでもある。東京に生まれ、蘇州にて客死した。オペラ、交響曲から歌曲、童謡、映画音楽、放送音楽... |
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中田章
中田章(なかだあきら、1886年7月8日-1931年11月27日)は日本の作曲家、オルガニスト。東京都出身で東京音楽学校甲種師範科及び研究科卒業。東京音楽学校教授... |
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音楽史
音楽史(おんがくし)、すなわち音楽の歴史について解説する。 |
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近衛秀麿
日本の指揮者・作曲家。元子爵。正三位勲三等。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春... |
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三善晃
三善晃(みよしあきら、1933年1月10日-)は日本の作曲家。 |
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大木惇夫
大木惇夫(おおきあつお、1895年(明治28年)4月18日-1977年(昭和52年)7月19日)は日本の詩人・翻訳者・作詞家。本名は軍一(ぐんいち)。1932年までは篤夫... |
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高田三郎
たさぶろう」。以下で詳述する。哲学者の「たかださぶろう」(1902-1994)。アリストテレス『ニコマコス倫理学』やトマス・アクィナス『神学大全』などの翻訳... |
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長唄
近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えどながうた)という。またこれとは別に、地歌の一分類とし... |
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後藤暢
福岡県出身の元競泳選手。1952年ヘルシンキオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。日本大学卒業。1952年のヘルシンキオリンピック男子800m自由形リ... |
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三浦環
日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名だった。元の名は... |
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西條八十
日本の詩人、作詞家、仏文学者。親戚に外交官の石井菊次郎、久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。漢字表... |
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プロフィール
- 山田耕筰とは
- 生涯
- 東京フィルハーモニー会
- 日本交響楽協会
- エピソード
- 代表的な作品
- 歌曲
- 童謡
- オペラ
- 関連サイト
山田耕筰(やまだこうさく、KósçakYamada、1886年(明治19年)6月9日-1965年(昭和40年)12月29日)は、日本の作曲家、指揮者。日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の 管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー 管弦楽団や レニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。 軍歌の作曲も多く手がけている。
生涯
| 東京市本郷(現在の東京都文京区)の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。 |
| 1899年、13歳のとき、姉を頼り岡山の養忠学校に入学。 |
| 義兄のエドワード・ガントレット(''EdwardGauntlett'',1868年-1956年)に西洋音楽の手ほどきをうける。 |
| 14歳のとき、関西学院中学部に転校。 |
| 同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。 |
| 1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。 |
| ベルリン時代の1912年(大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。 |
| 帰国後の1914年(大正3年)に、岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれて翌年解散する羽目となる。 |
| 1917年には渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。 |
| 1920年(大正9年)12月には帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演。 |
| 1924年(大正13年)には近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。 |
| これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発。 |
| 黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動をともにしたため、山田派は崩壊した。 |
| 弟子には内田元らがいる。 |
| 1921年文化学院音楽科主任となる。 |
| 1930年(昭和5年)、耕作から耕筰へと改名(後述)。 |
| 1936年(昭和11年)にはレジオンドヌール勲章受章。 |
| 1937年(昭和12年)には相愛女子専門学校(現・相愛大学)教授に就任。 |
| 戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。 |
| 同年11月にはオペラ「黒船」(当初の題名は「夜明け」)を初演。 |
| また皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作「祝典序曲」を指揮する。 |
| 1941年(昭和16年)、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長に就任、また音楽挺身隊を結成してしばしば占領地での音楽指導にも携わる。 |
| 将官待遇となりしばしば軍服姿で行動したため、「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。 |
| 1942年(昭和17年)に帝国芸術院会員に選出。 |
| 1944年(昭和19年)には日本音楽文化協会会長。 |
| 終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に戦犯論争が勃発。 |
| 論争が収まった頃の1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、以後体が不自由となる。 |
| 1950年(昭和25年)、日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。 |
| 1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。 |
| 離婚・再婚を機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。 |
| なお、サインには“KósçakYamada”という綴りを使っていた。 |
| 1965年(昭和40年)11月初旬、耕筰は聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。 |
| 同年12月4日、耕筰は成城の自宅に退院してくる。 |
| 12月29日、自宅2階の南向き10畳間で耕筰は心筋梗塞により死去、享年80歳。 |
東京フィルハーモニー会
| 山田は積年の悲願として「日本での本格的なオペラの上演」と「常設オーケストラの設立」を掲げていた。 |
| しかし、山田一人ではさすがにどうしようもなかった。 |
| そこに現れたのが三菱財閥総帥であり、かなりの音楽愛好家でもあった岩崎小弥太であった。 |
| 山田と岩崎の接点は、東京音楽学校のチェロ教師ハインリヒ・ヴェルクマイスターであり、チェロの指導で親交のあった岩崎に、自分が見た中で一番才能がある山田を引き合わせた。 |
| 山田は岩崎の知遇を得てドイツ留学を果たす一方、岩崎自身も音楽鑑賞のサークルとして「東京フィルハーモニー会」を自ら設立し、スポンサーとなった。 |
| 最初の頃は軍楽隊や当時人気のあった三越少年音楽隊などが一時的にまとまっての「合同オーケストラ」の形を取っていたが、やがて小規模ながら常設のオーケストラを作り、1915年(大正4年)から帝国劇場で公演を開始した。 |
| ところが、この頃最初の結婚をした山田が程なく別の女性(後にこの女性と再婚)に手を出し、それを聞いた岩崎が激怒。 |
| 岩崎からの出資が止められた東京フィルハーモニー会は金銭的に困窮することになり、1916年(大正5年)2月にはあっけなく瓦解、山田の悲願は頓挫してしまった。 |
日本交響楽協会
| 東京フィルハーモニー会瓦解後、訪米やオペラ上演を経て再び常設オーケストラを作ることを夢見た山田は、「まず本場のオーケストラを呼んで世間の注目をオーケストラに集めよう」と、当時東洋一の実力を謳われていたハルビンの東支鉄道交響楽団を招くことを考えた。 |
| 招聘話はかなりの部分まで進んだようだが、関東大震災であえなく挫折。 |
| 翌1924年(大正13年)4月に日本交響楽協会をとりあえず設立したものの、山田は自身のパートナーを探していたし、楽譜などのインフラ整備はまだまだだった。 |
| そこに、ヨーロッパ留学から大量の楽譜とともに帰国したばかりの近衛秀麿が山田と面会。 |
| 山田に助力する旨を伝えた。 |
| 山田は近衛の参加と原善一郎というロシア語が堪能な敏腕マネージャーを手中にしたことにより、「悲願達成の機は熟した」と判断。 |
| 大震災で断念した東支鉄道交響楽団の招聘に再び着手する。 |
| 1925年(大正14年)4月に開催された「日露交歓交響管弦楽演奏会」は成功裏に終わり、それを助走として協会は1926年(大正15年)1月に最初の定期演奏会を開いた。 |
| 6月まで12回の演奏会を開いたが、思わぬところから協会は崩壊する。 |
| 1926年9月8日、近衛が原のリストラを不服として突如協会退会を宣言。 |
| 近衛を支持する楽員が44名に達して近衛派は新交響楽団(新響)を設立。 |
| 一方の山田は事情聴取までされた上に黒柳守綱と「モンパルナス・トリオ」(松原与輔、岡村雅夫、郡司昌雄)しか手元に残らなかった(黒柳と岡村は、山田が溺愛していたがゆえに渾身の思いで引き止めたとも言われている)。 |
| 分裂の原因は使途不明の金銭にまつわる経理の不正が理由とされる。 |
| 後に関東軍の情報担当にもなった策士の原が一枚絡んでいるという説があるが、もともと山田自身が金銭にルーズな性格だったことも一因として挙げられており、100円(当時)の儲けを山田が50円、残りの楽員全員で50円(平均で1人1円ちょっとの計算となる)としていたことに楽員が不満で、そういう楽員の心境を近衛と原が巧みに掴んで分裂に至らしめたとも言われている。 |
| 分裂の後、山田と近衛は1931年(昭和6年)ごろに和解し、黒柳らも新響に合流したが、その近衛と原が新響を追い出されるのは4年後であった。 |
| このときも原が原因だったという。 |
| 山田は金銭面の問題はさておき、指揮者としての実力や情熱は他の指揮者と比べてもまったく引けは取らなかったようであるが、実力や情熱を以ってしてもオーケストラの運営者として擁くには、どうしても乗り越えられないような壁があったのではないかという指摘もある。 |
| 例えば井上道義は、「楽員は山田と近衛の性格を比較して、山田からカリスマ性を見出せなかったのではないか」と述べている。 |
| 山田は戦後に脳溢血で倒れて体が不自由になっても、しばしば指揮をした。 |
| しかし、その殆どは別の指揮者に実際の指揮を任せていたという(ベートーヴェンが第九の初演指揮を、実質ミヒャエル・ウムラウフに委ねていたのと同じ感覚)。 |
| 「黒船」を大阪で指揮した際も、実際の指揮を朝比奈隆が執っている。 |
エピソード
| 1930年12月、「耕作」を「耕筰」に改名すると発表した。 |
| 戸籍上は長らく「耕作」のままであったが、1956年に再婚したのをきっかけに「耕筰」に改めている。 |
| 1948年に発表したエッセイ「竹かんむりの由来」(『山田耕筰著作全集3』岩波書店に所収)によると、「山田耕作」と同姓同名の人物が多く(全国に100人以上いたらしい)、それゆえのトラブルが頻発していたのが、改名の理由の一つである。 |
| もう一つは、山田の指揮姿を見た颯田琴次から、後頭部の髪の乱れを指摘され、カツラをつけろと言われた後である。 |
| カツラを嫌った山田は丸坊主にしたものの、その姿を気に入っておらず、それで名前の上にカツラをかぶせることを考えた。 |
| 竹かんむり=ケケ(毛毛)というわけである。 |
| 「筰」の字は『康煕字典』から見つけたものである。 |
| 山田は、1913年(大正2年)以降、自分の名前のアルファベット表記を「KósçakYamada」としている。 |
| エッセイ「竹かんむりの由来」によると、ベルリンの出版社から山田の歌曲集を出版することになった際、出版社の人間から「Kosaku」という名前を笑われたのだという。 |
| 「コーザクーというとコーザ(イタリア語で「物」「何」)の牝牛(クー)だというのだ」そうである(「ザ」となっているのは、ドイツ語では母音を伴う単独のsは原則として/z/で発音するため——引用者注)。 |
| 「カルピス」の商品名・社名は、同社の社長から相談を受けた山田が「最も響きがよく、大いに繁盛するだろう」とアドバイスしたことで決まったものであるとされる。 |
| 代表作の題名にもなっている「ペチカ」とはロシア風の暖炉のことで、後にロシア人の実際の発音を聞いた山田は、歌うときには「ペイチカ」と発音されることを望んだという。 |
代表的な作品
| 北原白秋と共同して数多くの国民的歌謡、校歌等を創作した。 |
| なお、山田の管弦楽曲・室内楽曲などの作品は未出版のものが多く、しかも自筆譜のほとんどが戦災により焼失してしまったため筆写譜としてしか保存されていないなどの事情があり、出版・演奏の機会がほとんどないものが多い。 |
| 楽譜の大多数は日本近代音楽館に所蔵されており、日本楽劇協会が管理している。 |
| 1997年に春秋社から作品全集(既刊12巻)の第1巻として初めて管弦楽曲のスコアが出版されたがパート譜は製作されなかった。 |
| 近年になって日本楽劇協会監修の元、株式会社 |
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1899年
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13歳のとき、姉を頼り岡山の養忠学校に入学 |
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1910年
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組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首... |
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投票数
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