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吉田松陰
日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家、である。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。 |
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井上馨
日本の武士・長州藩士、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。元老桂太郎陸軍大将とは義理の親子の... |
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高杉晋作
日本の武士(長州藩藩士)。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風。通称は晋作、東一... |
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伊藤博文
日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
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大隈重信
日本の武士(佐賀藩藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農... |
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品川弥二郎
日本の武士(長州藩士)、政治家。勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 |
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木戸孝允
幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。位階勲等は贈従一位勲一等。長州藩士で、明治初期... |
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久坂玄瑞
日本の武士・長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊皇攘夷派の中心人物。贈正四位(... |
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前原一誠
日本の武士(長州藩士)。名は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕の志士として活躍したが、維新後、萩の乱の首謀者として処刑とされた。贈従四位(大正5年(19... |
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大村益次郎
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制に... |
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山縣有朋
日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は公爵。内務大臣(初・第2・第3代)、内... |
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村田清風
日本の武士・長州藩士(家老)。贈正四位。家格大組(別名馬廻)。 |
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青木周蔵
明治、大正期の外交官、政治家。勲等は勲一等。爵位は子爵。 |
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野村靖
野村靖(のむらやすし、天保13年8月6日(1842年9月10日)-明治42年(1909年)1月24日)は日本の武士、政治家。子爵。名は和作、靖之助。号を欲庵、香夢庵主。... |
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松方正義
日本の武士、政治家、財政指導者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東。日田県知事(初代)、大蔵大臣(初・... |
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佐藤三武朗
比較文学者、作家、日本大学国際関係学部長・教授。静岡県伊豆市(旧中伊豆町)生まれ。1972年日大英文科卒、74年同大学院修士課程修了。英国留学をへて、日... |
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岩倉具視
贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。 |
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尾崎行雄
尾崎 行雄/おざき ゆきお
所属球団:東映 登録名:尾 崎 中卒 在籍年数:4年目 出身地:大阪府
顔の色:黄色 背番号:19 出身:国内 新人王権利:あり 生... |
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黒田清隆
薩摩藩士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。位階はは従一位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。通称は仲太郎、了介。新字体で黒田清隆(くろだきよたか)と表記... |
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プロフィール
- 山田顕義とは
- 生い立ち
- 幕末期
- 明治維新
- 欧米視察後
- 司法大臣として
- 死後
- 親族
- 小説
- 関連サイト
山田顕義(やまだあきよし、天保15年10月9日(1844年11月18日)-明治25年(1892年)11月11日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、陸軍軍人。通称は市之允、諱は顕孝、のち顕義と改めた。位階勲等は陸軍中将・正二位・勲一等。 爵位は伯爵。初代司法大臣。「日本の小ナポレオン」といわれ、明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の建立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした。また、日本法律学校(後の日本大学)、國學院(後の学校法人國學院大學)の学祖でもある。
生い立ち
| 200px|thumb|left|松下村塾。 |
| 天保15年(1844年)10月9日、当時の長門国阿武郡椿郷東分山田本人が明治政府に提出した『履歴書』では「長門国阿武郡松本村」と記している(山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行(大組士、禄高102石、藩海軍頭)の長男として生まれる。 |
| 一門に村田清風・山田亦介・河上弥市ら。 |
| 安政3年(1856年)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。 |
| 2月、伯父の山田亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。 |
| 3月、藩校明倫館に入って師範の馬木勝平から剣術(柳生新陰流)を学び、文久2年(1862年)には柳生新陰流伝中許を得ている。 |
| 安政4年(1857年)6月、松下村塾に入門した。 |
| 安政5年(1858年)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異俗流與議難不思身後業且偸目前安百年一瞬耳君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる。 |
幕末期
| 200px|thumb|left|戊辰戦争の図。 |
| 文久2年(1862年)秋に上京し、藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を務めるようになった。 |
| 同年12月、高杉晋作・久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた。 |
| 文久3年(1863年)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。 |
| 4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。 |
| 八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した。 |
| しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏。 |
| 後に長州へ帰国した。 |
| 藩から遊撃隊御用掛に任命された。 |
| 普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ。 |
| 元治元年(1864年)、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木和泉らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。 |
| 8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。 |
| 12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起に参戦し勝利を収め、「俗論派」を排除する。 |
| 慶応2年(1866年)、第二次長州征伐では藩海軍総督の高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。 |
| 7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めた。 |
| なお、7月20日に将軍徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となった。 |
| 慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。 |
| 11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主毛利敬親の命令で、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った。 |
| 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の副参謀に任命される。 |
| 陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、戊辰戦争の勝利に貢献した。 |
明治維新
| 明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞される。 |
| 陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。 |
| 長州藩少参事兼任を命ぜられる。 |
| 8月、山口凱旋。 |
| 9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜される。 |
| しかし、大村益次郎の暗殺未遂により、藩命で急ぎ上京。 |
| 病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。 |
| 大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。 |
| 明治3年(1870年)、大村の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごす。 |
| 5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者に働き掛けを開始する。 |
| これも大村の計画によるものであった。 |
| 9月には普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。 |
| この年、大蔵大丞井上馨の養女、湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚。 |
| 明治4年(1871年)1月、大坂にて辛未徴兵を開始するも、5月には事実上延期となる実際には8月まで募兵は続いている。 |
| これは徴兵の質及び、指導士官や施設の不足等の根本的な問題の為だった。 |
| 7月、陸軍少将に任命された。 |
| 同年10月、岩倉使節団に兵部省理事官として随行。 |
| サンフランシスコ、ソルトレイクシティ、シカゴを経由し、ワシントンD.C.に到着。 |
| 明治5年2月(1872年3月)、岩倉らと別れて原田一道ら兵部省一行とともにフィラデルフィアの海軍施設等を見学後、渡仏。 |
| パリを中心に、ベルリン、オランダ、ベルギー、ローザンヌ、ブルガリア、ロシア等欧州各国で軍制を調査。 |
| ウィーンの万博にも立ち寄り、明治6年(1873年)5月、マルセイユ港から帰途に着く。 |
欧米視察後
| 明治6年(1873年)6月、帰国。 |
| 9月、「兵は凶器なり」と指摘した上申書(理事官功程)提出、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた。 |
| 7月、東京鎮台司令長官に任命されるが、11月には同職を解かれ清国特命全権公使に任命される。 |
| 山田本人に渡清の意思はなく、木戸孝允も大久保利通に対して同職の解任の働き掛けをしている。 |
| しかし、清国駐在に至る前の明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、乱鎮圧のため九州出張。 |
| 乱は翌3月に平定。 |
| 同年7月、佐賀の乱鎮圧の戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔に就任。 |
| 帰国以来、山縣有朋と徴兵令施行等の意見衝突によって対立していた山田は陸軍少将の肩書きのみで陸軍に実質的な地位はなく、政府内で微妙な立場にあった為、方向転換せざるをえなかった。 |
| 明治8年(1875年)9月、刑法編纂委員長に就任。 |
| 明治10年(1877年)3月、西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。 |
| 木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。 |
| 同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。 |
| 明治11年(1878年)2月、刑法草案審査委員として法典編纂に従事。 |
| 同年11月、陸軍中将に任ぜられる。 |
| 明治12年(1879年)7月、長男金吉誕生。 |
| 11月、工部大学校第一回卒業式で卒業生一人一人に証書を手渡す。 |
| 明治13年(1880年)2月、専任参議に任ぜられる。 |
| 明治14年(1881年)8、9月頃、独自の憲法草案である「憲法私案」を左大臣・有栖川宮熾仁親王に提出し、さらに改定したものを右大臣・岩倉具視に提出した。 |
| 明治16年(1883年)4月、東京府知事芳川顕正に対し、衛生上の理由から、東京府においても下水道改良整備を示達。 |
| 明治17年(1884年)、伯爵を受爵。 |
司法大臣として
| 明治18年(1885年)12月に内閣制度が発足し、第1次伊藤内閣の司法大臣に就任した。 |
| 明治20年(1887年)、大日本私立衛生会会頭に就任。 |
| 同年10月、法律取調委員長に就任し、民法・商法・訴訟法の編纂事業に携わった。 |
| 関西法律学校創立にも尽力した。 |
| 明治21年(1888年)4月、引き続き黒田内閣の司法大臣に留任。 |
| 12月、民法、商法の各法案を黒田首相及び内閣に提出した。 |
| 司法大臣として法典整備を進めるなかで、日本の人種・習慣・風俗・言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにするため、その基礎となる国典の研究の重要性を認識したことにより、明治22年(1889年)1月、皇典講究所所長に就任したうえで皇典講究所の改革を推し進めた。 |
| 10月4日、同所内夜間部の位置づけで、日本古来の法と外国の法を研究する教育機関としての日本法律学校の創設に参加した。 |
| 12月、引き続き第1次山縣内閣の司法大臣に留任。 |
| 明治23年(1890年)4月、民法中の財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編、民事訴訟が公布。 |
| 7月、皇典講究所内に国文・国史・国法を研究する教育機関として國學院を創設した。 |
| 10月、民法人事編・財産取得編中贈与・遺贈・夫婦・財産契約が公布されるも、「民法出デテ、忠孝亡ブ」との民法典論争が巻き起こり、施行が延期される。 |
| 12月、商法施行延期の責任をとって司法大臣を辞任。 |
| 明治24年(1891年)2月、司法大臣に復職。 |
| 5月、第1次松方内閣の司法大臣に留任。 |
| 直後に大津事件が発生した時は犯人・津田三蔵への死刑適用に奔走した。 |
| 6月、病気療養を理由に司法大臣を辞任した実情は大津事件で犯人を死刑に処せとの明治天皇の指示に副えなかった責任をとっての辞任であった。 |
| 明治25年(1892年)1月、枢密顧問官に就任。 |
| 同年11月、但馬(兵庫県北部)にて、幕末の生野義挙に敗れ21歳で自刃した再従兄弟の河上弥市(変名:南八郎、奇兵隊第2代総監)の最期の地に建立された碑に参拝した後、生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま立てずに死去一応死因は脳溢血と見られているが、日本大学の研究によれば、頭蓋骨の形状などから、突き落とされたのではないかとの見解も強い。 |
死後
| 墓所は東京都文京区大塚の護国寺(日本大学豊山高校所在地)にある。 |
| 昭和54年(1979年)、日本大学が建学90周年を記念し山口県萩市の誕生地に「顕義園」が設けられた。 |
親族
| 長男の夭折後、甥の久雄が選定相続人となって伯爵位を継ぐが若くして死亡。 |
| 龍子が養育が成人後、会津松平家より、松平容保の三男・松平英夫を婿取った。 |
| 英夫は陸軍歩兵中佐に進み病のため現役を離れ、貴族院議員を務めた。 |
| 英夫の次男・貞夫はインパール作戦に参加し戦死した陸軍大尉高木俊朗によればその死は花谷正に強要された自決である。 |
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1844年
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当時の長門国阿武郡椿郷東分(山口県萩市)で... |
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1856年
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松本村の新山直衛塾に学ぶ |
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