| 明治2年(1869年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。 |
| 翌年アメリカ経由で帰国。 |
| その後は競争相手を押しのけて、大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行、徴兵制を取り入れた(徴兵令)。 |
| 明治5年(1872年)、山縣は陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。 |
| いわゆる山城屋事件である。 |
| 山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で1873年(明治6年)4月に陸軍大輔を辞任。 |
| 然し当時山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿で復職した。 |
| 参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。 |
| 1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では、参軍として官軍の事実上の総指揮を執った。 |
| 錬度や士気で優る薩軍に対し、物量で対抗して鎮圧した。 |
| 9月に最後の城山の戦いでは、西郷へ自決を勧める書状を送った但し西郷は返事をせず討ち死した。 |
| 1883年(明治16年)には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。 |
| 1888年(明治21年)12月2日より、ヨーロッパ各地へ視察旅行に出る。 |
| その為翌1889年(明治22年)2月11日の宮中での大日本帝国憲法発布式典には臨んでいない。 |
| 伊藤博文も学び、当時「シュタイン詣で」とさえいわれるほど日本政府の要人らがウィーンの憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問。 |
| ほかルドルフ・フォン・グナイスト、ヨハン・クルメツキ、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問。 |
| 翌年10月2日に帰国瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』講談社メチエ、2003年,157-180頁。 |
| 1889年(明治22年)、内閣総理大臣に就任(第1次山縣内閣)し、日本最初の帝国議会に臨んだ。 |
| 超然主義をとり軍備拡張を進める。 |
| 第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保の為に軍事予算の拡大が必要であると説いた。 |
| 1890年(明治23年)10月30日に教育勅語を発布。 |
| 1891年(明治24年)に辞任第1回帝国議会での予算案審議に際し、立憲自由党議員の一部を買収して予算案を通過させたことに対する批判の責任を取ったもの。 |
| し、元老となる。 |
| 日清戦争では、56歳にもかかわらず第一軍司令官として自ら戦地に赴き作戦の指揮をとった。 |
| 「敵国は極めて残忍の性を有す。 |
| 生摛となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示している。 |
| 配下の第5師団が平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自身は体調を崩し、明治天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返されている藤村道生による、大本営の冬営論に従おうとしなかったために解任されたとの説(藤村道生『山県有朋』p.160-p.170、『日清戦争』1973年など)が従来から信じられてきた。 |
| 然し、斎藤聖二が山縣が実際に病状を悪化させていたこと、大本営が既に冬季作戦論に転換していたことを実証して山縣の召還は「健康への憂慮」と「戦略上の必要性」にあると指摘(『日清戦争の軍事戦略』2003年)しており、伊藤之雄が藤村の説には疑問を呈している(伊藤『山県有朋―愚直な権力者の生涯』p.268-p.277)ほか原田敬一も「病気の軍司令官による冬季作戦はできない、という大本営の判断が山県解任の理由」とする斎藤の説を支持している(原田『日清戦争』2008年、p.187-p.192)。 |
| 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣発足。 |
| 1899年(明治32年)、文官任用令を改正省庁、特に内務省の高級官僚から憲政党などの政党員を締め出し、{{要出典範囲|子飼いの官僚を多く配置するため|date=2011年7月|title=←執筆者個人の意見なら無用。 |
| 文官懲戒令、文官分限令を公布。 |
| 1900年(明治33年)3月10日、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた治安警察法を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。 |
| 続いて3月29日には、衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を地租または国税15円以上から10円以上に緩和さらに、国税は過去3年間から2年間に緩和。 |
| 地租は1年間で変化無し)すると共に、小選挙区制(一部完全連記制の中選挙区制)から大選挙区制(一部小選挙区)に改めた。 |
| 山縣は政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対した(超然主義)。 |
| 小選挙区制は強大な政党が生まれやすいことから、大選挙区制に改め、小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があった。 |
| また、政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊し、政府や都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いがあったといわれる。 |
| もっとも、小選挙区が残ったこと、政党そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも、むしろ議席は大政党への集中が進んだ。 |
| 同年10月辞任政敵である伊藤博文が立憲政友会を設立し、総裁に就任したことに伴うもの。 |