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つながりの強いひと
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蒋介石
蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
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永田鉄山
日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任し、陸軍省軍務局長。階級は陸軍中将。没後追贈で、正四位勲一等に叙され瑞宝... |
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板垣征四郎
大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を... |
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小畑敏四郎
小畑敏四郎(おばたとしろう、1885年(明治18年)2月19日-1947年(昭和22年)1月10日)は日本の陸軍軍人。陸軍中将。高知県出身。いわゆる皇道派の中心人物と... |
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土肥原賢二
土肥原賢二(どいはらけんじ、明治16年(1883年)8月8日-昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離... |
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今村均
大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。温厚で高潔な人柄と、占領地での軍政・指導能力は高く、戦後は総じて評価が低い傾向にある昭... |
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寺内寿一
日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将、爵位は伯爵。山口県出身。第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では... |
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石原莞爾
昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織... |
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東條英機
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機(とうじょうひでき)とも表記される。陸軍大臣、内... |
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何応欽
何応欽(かおうきん)は中華民国の軍人。字は敬之。 |
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岡部直三郎
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。北支那方面軍総司令官、第3方面軍司令官、第6方面軍司令官。 |
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安藤利吉
宮城県出身の日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。旧制宮城県第二中学校1回、陸軍士官学校16期。陸軍大学校26期。第19代台湾総督。 |
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山下奉文
日本の陸軍軍人。第二次世界大戦当時の陸軍大将である。官位は陸軍大将従三位勲一等功三級。 |
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栗林忠道
大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。長野県埴科郡旧西条村(現:長野市松代町)出身。小笠原兵団長(兼第109... |
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宇垣一成
宇垣一成(うがきかずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日)-昭和31年(1956年)4月30日)は日本の陸軍軍人、政治家である。成城学校から陸軍士官学校、陸軍... |
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中村明人
大日本帝国の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争時のタイ国駐屯軍司令官。 |
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武藤章
昭和の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。極東国際軍事裁判(東京裁判)で唯一中将として絞首刑判決を受けた。 |
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真崎甚三郎
日本の陸軍軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。外務省、宮内庁などの官僚で、延べ25年という異例の長期間... |
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松井石根
松井石根(まついいわね、明治11年(1878年)7月27日-昭和23年(1948年)12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将... |
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河本大作
昭和初期に活動した大日本帝国の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の首謀者として知られる。 |
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プロフィール
- 岡村寧次とは
- 陸軍士官学校卒業まで
- 任官から終戦まで
- 戦後
- 参考文献
岡村寧次(おかむらやすじ、1884年(明治17年)5月15日-1966年(昭和41年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛の娘と再婚する。陸軍 三羽烏の一人。
陸軍士官学校卒業まで
| 早稲田中学校、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業する。 |
| 1904年(明治37年)10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第1連隊補充隊付を命ぜられる。 |
| 同期には岡村を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山中将・小畑敏四郎中将の他、土肥原賢二大将・板垣征四郎大将・安藤利吉大将がいる。 |
| 1907年(明治40年)、陸軍中尉・陸軍士官学校生徒隊付を命ぜられる。 |
| 岡村は士官学校在学中には中国研究をし、この時の生徒隊では中国からの留学生の教育を担当した。 |
| 1910年(明治43年)12月に陸軍大学校に入校する。 |
| 在校中に大尉に昇級し1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(25期)を卒業し原隊である歩兵第1連隊中隊長に補される。 |
任官から終戦まで
| 1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し同6年には北京駐在員として中国勤務を経験する。 |
| 1921年(大正10年)6月から半年間欧米に出張し、帰国後の1922年(大正11年)2月歩兵第14連隊大隊長に就任、翌年の1923年(大正12年)から上海駐在となる。 |
| 1921年(大正10年)の欧米出張の際には10月にスイス公使館付武官永田鉄山・ロシア公使館付武官の小畑敏四郎とドイツのバーデン・バーデンで合い、翌日には東條英機が合流した。 |
| 会合では派閥解消・人事刷新・軍制改革・総動員体制等について密約したという。 |
| 尚、この密約について詳細は明らかではないが後の極東国際軍事裁判で検察側が軍部独裁に繋がる端緒であるとして取り上げている。 |
| 1927年(昭和2年)7月に陸軍大佐に進み歩兵第6連隊長を命ぜられる。 |
| 翌年は参謀本部内国戦史課長、1929年(昭和4年)8月から陸軍省人事局補任課長に就任する。 |
| 補任課長在任中に三月事件に関わる。 |
| これは宇垣一成陸軍大臣を首班とする軍事政権樹立を企てたものであったが、テロ等の非合法手段を用いた計画であり当の宇垣が直前になって反対した為頓挫した。 |
| 事件に幾許か関わったのであれば本来なら何らかの処分を受けるところだが、小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長等陸軍上層部の事件に関わっていた事からこの件は隠滅され岡村も処罰はなかった。 |
| 1932年(昭和7年)2月に上海派遣軍参謀副長として転出し、同年8月には関東軍参謀副長に就任、1933年(昭和8年)2月から満州帝国駐箚陸軍武官を兼ねる。 |
| 同年5月31日には国民政府軍の全権だった何応欽と塘沽協定の締結にこぎつける。 |
| 1935年(昭和10年)3月に参謀本部第二部長として中央に復帰、翌年3月に陸軍中将に補せられ第2師団長に任じられる。 |
| 師団は内地にあったが、1937年(昭和12年)4月に満州に派遣され、同年7月には盧溝橋事件が発生し日中間で全面戦争に発展していく。 |
| 1938年(昭和13年)6月新設の第11軍司令官に就任する。 |
| 第11軍は中支那派遣軍の隷下部隊で7個師団1個独立混成旅団を統括し、1938年10月の武漢攻略作戦では大いに活躍した。 |
| 司令官在任中の1940年(昭和15年)2月に勲一等旭日大綬章を受章し同3月には軍事参議官へ移る。 |
| 1941年(昭和16年)4月に陸軍大将に進級すると同年7月には北支那方面軍司令官に就任する。 |
| 岡村は司令官着任時に「滅共愛民」との理念から1941年(昭和16年)11月に「焼くな、犯すな、殺すな」という三戒の遵守を訓示した。 |
| 寧次は三戒を始めとする風紀粛正によって放火、殺人、強盗が常態化していた北支那方面軍の規律崩壊を食い止め、1943年(昭和18年)ごろまでにはかなり規律を取り戻していたと言われている。 |
| 1944年(昭和19年)の大陸打通作戦では河南作戦を指揮した。 |
| 同年8月第6方面軍司令官に転じ湘桂作戦を行う。 |
| 1944年(昭和19年)11月中国大陸の部隊を統括する支那派遣軍総司令官に就任する。 |
| 兵力100万の大所帯である。 |
| 中国大陸では武漢三鎮・広東を手中に収めこれ以上の攻略は難しいと判断した大本営は部隊をそのまま駐屯させる方針をとっていた。 |
戦後
| 1945年(昭和20年)8月に入ると、現地には外国の無線等から日本が降伏する旨の情報が入るようになり、8月11日には大本営がポツダム宣言を受諾する旨を打電してきた。 |
| しかし、寧次の指揮する支那派遣軍は持久戦を行っていた事から兵力がほぼ温存されており、無条件降伏を不服に思った寧次は8月14日、「(宣言受諾は)帝国臣民を抹殺するものに斉しく帝国臣民として断じて承服し得ざる」「徹底抗戦遂行に邁進すべく御聖断」求める旨を天皇に上奏する。 |
| 内地の軍中枢部でも、宣言受諾が大方決まってからも徹底抗戦を求める声が強く、そこへ岡村上奏文が登場した事から徹底抗戦派が勢いづき、寧次はその首領とみなされてしまう。 |
| しかし翌日、昭和天皇が宣言受諾を決定した旨伝えられると、寧次は考えを改め「承詔必謹」(天皇の決断を承り実行すること)を隷下将兵に厳命する。 |
| 昭和天皇は、ポツダム宣言を受諾し降伏するという意向を徹底させるため、戦地に皇族を派遣することとし、陸軍大将の朝香宮鳩彦王、陸軍少将閑院宮春仁王、陸軍中佐竹田宮恒徳王の3人をしてその任にあたらせた。 |
| 外地司令官は、南方軍総司令官・寺内寿一元帥、関東軍総司令官・山田乙三大将と寧次であった。 |
| 序列もそれぞれ寺内・山田・寧次の順であり、通常ならば皇族の序列もそれにあわせて寺内のもとには朝香宮、山田には閑院宮、寧次には竹田宮が派遣されるが、寧次は先の上奏文から強硬派と目されていたために、派遣皇族の拘留等も考慮されて、寧次のもとへ朝香宮が派遣された。 |
| 17日、総司令部のある南京に到着した朝香宮は寧次に逢うなり「(抑留の虞があるというが)閣下は私を抑留されますか」と言ったという。 |
| 穏便に降伏となった支那派遣軍は9月に中国軍に対し降伏調印する事となるが、この時の中国側代表は、塘沽協定を締結した際に中国側全権だった、国民政府陸空軍総司令何応欽大将だった。 |
| 寧次は極力中国を支援するよう停戦業務にあたり、何大将は敬意を払って応対した。 |
| 何大将は日本側に自力での復員業務を認め、岡村以下日本側の各級司令官に従前の権限を認めた為、兵士100万・市民100万は僅か10ヶ月で日本への復員・引揚を完了することができた。 |
| また、寧次が早期に日本へ帰還しては国際軍事法廷での戦犯となるため、中国に残留させて中国戦犯として裁き、無罪となった。 |
| 1949年(昭和24年)1月には無事復員する。 |
| 寧次と何大将はその後日本で再会を果たしたという。 |
| 帰国後の寧次は、1954年(昭和29年)には全国遺族等援護会顧問に就任し、1957年(昭和32年)5月からおよそ6年に渡り戦友会の全国組織である日本郷友連盟会長を務め1966年(昭和41年)に病没する。 |
| また、寧次に蒋介石が接触したことから日本軍将校からなる軍事顧問団「白団」(ぱいだん:団長富田直亮の中国名、白鴻亮から)が結成され、1949年(昭和24年)から約20年にわたり中国国民党政権に協力した。 |
参考文献
| 『岡村寧次大将資料(上)戦場回想篇』(稲葉正夫編、原書房なお、(下)は刊行されていない)。 |
| 『支那派遣軍総司令官岡村寧次大将』(舩木繁著、河出書房新社)。 |
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