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高田稔
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プロフィール
- 岡田嘉子とは
- 幼少期
- 新劇女優
- 映画女優
- スキャンダル女優
- 苦闘のトーキー映画時代
- 極寒のソビエト逃避行
- 映画
- ラジオ
- テレビドラマ
- 岡田嘉子を演じた女優
- 著書
- 参考文献
- 関連サイト
岡田嘉子(おかだよしこ、1902年4月21日-1992年2月10日)は、広島県広島市細工町(現在の広島市中区大手町)生まれの日本の女優・アナウンサー。大正-昭和初期、サイレント映画時代のトップ映画女優であった。奔放な恋愛遍歴とソビエト連邦(現在のロシア)へ亡命するなど波乱の生涯を送ったことでも知られる。
幼少期
| 1902年(明治35年)4月21日、新聞記者の娘として広島市細工町に誕生。 |
| 細工町は後年(1945年)原子爆弾投下地点となった町である。 |
| 優秀な教育を受け育つ。 |
| 母方の祖母がオランダ人の血を引くため、エキゾチックな美貌を受け継いだ。 |
| 父の放浪癖のために、一家は朝鮮の釜山、横須賀、東京の湯島などに移り、嘉子も小学校を8つも変わった。 |
| 父は学校で宮城(皇居)遙拝(皇居遥拝)などがあると休ませてしまうリベラリストで、これが後年、嘉子の型にはまる事を嫌う奔放な生き方に影響を与えているものと思われる。 |
| 1915年(大正4年)東京・女子美術学校西洋画科へ入学。 |
| 1917年(大正6年)父が北海道小樽の「北門日報」の主筆に招かれ嘉子も卒業して、翌1918年(大正7年)小樽に移り同社の婦人記者として入社する。 |
| 同年、慈善演芸会の催しで頼まれてヒロインに扮して出演。 |
| 際立った美貌が評判となる。 |
| 父が芸術座の島村抱月や劇作家の中村吉蔵と知り合いだった事もあり翌1919年(大正8年)、父に連れられて上京、中村の内弟子となる。 |
新劇女優
| 芸術座は前年秋の島村の病死、1919年の松井須磨子の自殺で解散。 |
| 中村は松竹と提携し新芸術座を旗揚げ、同年、3月1日の有楽座「カルメン」の端役で初舞台を踏む。 |
| 新芸術座も解散。 |
| この後新文芸協会の東北地方巡業中、座員で早稲田大学予科の学生、服部義治と無知のまま初体験を持ち妊娠、東京に戻り男児を出産。 |
| 嘉子の弟として岡田家の籍に入れる。 |
| 服部は結婚を迫ったが拒否した。 |
| 多くの劇団の客演をこなし1921年(大正10年)舞台協会帝劇公演での「出家とその弟子」(倉田百三作)において息をのむようなラブシーンで観客を魅了、一躍新劇のスター女優となった。 |
| この後地方巡業中、共演した山田隆弥と愛人関係となる。 |
| これを妬んだ服部は1925年(大正14年)鉄道自殺した。 |
| 1922年(大正11年)日活向島撮影所の衣笠貞之助ら女形を含む幹部俳優が社の女優採用の不安から国活に移籍。 |
| 日活向島はこれを埋めるため舞台協会の嘉子や夏川静江らと契約した。 |
映画女優
| 第一回作品は1923年(大正12年)倉田百三の戯曲「出家とその弟子」をベースにした「髑髏の舞」。 |
| 愛欲心理描写がサイレント期、日本映画のエポックとなった新生日活のこの大作で、嘉子は町娘を演じ映画でも一躍スターとなった。 |
| この後舞台と平行して映画出演を続けたが同年関東大震災のため日活向島が閉鎖。 |
| 舞台を続けるが不入りが続き多額の借金を抱えた。 |
| さらに結婚を望んだ山田に30歳も上のパトロンの妻がいる事が分かり、山田の煮え切らない態度に悩む。 |
| この妻への意地で日活京都撮影所と契約。 |
| 日活から前借りし借金を返済したため一座を救うため身を売った“大正お軽”と新聞に騒がれた。 |
| 1925年(大正14年)「街の手品師」に主演。 |
| 舞台のスターだった嘉子は自らの演技を活かせない村田実監督の細かいカット割りに強く反発した。 |
| しかしながらこの作品の嘉子の演技は“完璧に達せる”と高い評価を得た。 |
| この頃樺太庁大泊町にあった「樺太民友新聞」にいた両親が京都に訪ねて来て用立ててやる。 |
| 給料の大半は借金返済に回され身売りした女郎に変わりが無い、と深刻に悩む。 |
| 続く「大地は微笑む」(オムニバス、監督溝口健二他)は日活、松竹、東亜キネマの三社競作となったメロドラマの大作だったが、嘉子の日活版に軍配が上がり、東亜キネマの専属になっていた山田の内縁の妻と世間にも知られていたにもかかわらず、この年10月の映画女優人気投票でトップとなった。 |
| この年は計9本の映画に出演。 |
| 1926年(昭和元年)はキネマ旬報ベストテン2位となった「日輪」(村田実監督)他7本の映画に主演。 |
| この年講演会で「私たち女優をもっと真面目に扱って欲しい」とスターの人権宣言をする。 |
| 1927年(昭和2年)「彼をめぐる五人の女」に主演、これもベストテン2位となりモダンなタイプのヒロイン像は、それまでの日本の女優にないタイプのもので新しい時代の息吹きとして大きな評判を獲る。 |
スキャンダル女優
| 同年、大作映画「椿姫」のヒロインに抜擢される。 |
| 今までに無い意欲を持って撮影に挑んだが、ロケ現場で群集を前に村田監督から罵倒に近い叱声を浴びたり、私生活の悩みを抱えそれを相手役の美男俳優、竹内良一に相談したところ衝動的に駆け落ちし失踪。 |
| 新聞は「情死をなす恐れあり」などと書きたて、スキャンダルとして大騒ぎになる。 |
| 日活は解雇され映画界から閉め出された。 |
| 恋の逃避行は彼らを大衆のアイドルとしたが、反面その奔放さに対する反感も強く、舞台では立ち往生させられるほどのひどい野次に見舞われた。 |
| この年最愛の母が46歳で病死。 |
| 1928年(昭和3年)大衆作家直木三十五の肝いりで「岡田嘉子一座」を旗揚げ。 |
| この年から1930年(昭和5年)4月に解散するまでほぼ2年間地方巡業。 |
| 信州、北陸、東北、関西、東海、四国、中国、九州、更に朝鮮、中国、台湾も一周と、興行の引き受け手があるところが尽きるまで各地を回った。 |
苦闘のトーキー映画時代
| 帰京後、日本で糸口が着いたばかりのトーキー(有声映画)に着目。 |
| 自らのプロダクションを設立。 |
| 嘉子主演・竹内監督で、舞踏や流行小唄を題材とした十数本の映画を製作、売り込みを図る。 |
| また日本舞踊に本格的に取り組む。 |
| 藤間静枝の門下となり名取を許され藤蔭嘉子を名のった。 |
| 1932年(昭和7年)に日活時代の借金を肩代わりするとの条件で松竹蒲田撮影所と契約。 |
| しかし栗島すみ子、田中絹代、川崎弘子ら人気スターのあいだにおいては、若さの盛りにスターの座を退いた嘉子は華やかさで彼女らには及ばず、役にも恵まれず小津安二郎の「また逢う日まで」「東京の女」の主演以外は意欲の湧かないものばかりであった。 |
| 舞台出身ということで最大の希望はトーキーで、いくつか出演はするも脇役あるいは不調和な役柄が続く。 |
| 1934年(昭和7年)父が病死。 |
| 衣笠貞之助の股旅物の傑作「一本刀土俵入り」や小津のネオリアリズムの傑作「東京の宿」で好演するが、使いにくい女優と敬遠されるにいたり、自分が真底打ち込める作品を求め舞台転向を決意。 |
| 数本の映画出演の傍ら松竹傘下の新派演劇、井上正夫一座に参加、舞台出演が増えた。 |
| 1年前から竹内との仲は冷え切り別居状態になっていたが1936年(昭和11年)8月、嘉子の舞台を演出したロシア式演技メソッド指導者で共産主義者の演出家杉本良吉と激しい恋におちる。 |
極寒のソビエト逃避行
| 1936年(昭和11年)日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。 |
| 過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。 |
| 1937年(昭和12年)暮れの12月27日、二人は上野駅を出発。 |
| 北海道を経て翌1938年(昭和13年)1月3日、二人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。 |
| 日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。 |
| 杉本は1939年(昭和14年)、スパイとして銃殺刑となった(このことは嘉子の晩年になってようやく明らかになり、それまではずっと「獄中で病死」とされていた。 |
| ただし、後述の今野勉の調査で嘉子が1972年の里帰り以前に銃殺の事実を知っていたことは確実とされている朝日新聞be編集グループ『またまたサザエさんをさがして』朝日新聞社、2007年、p.136。 |
| また、彼らの亡命は世界的演出家メイエルホリド粛清の口実の一つにされた。 |
| 嘉子はソ連入国後『労役三年の刑の後、1940年(昭和15年)に釈放され、モスクワに近いチカロフ(現オレンブルク)の町に送られて最低限の生活を保証され、1941年(昭和16年)の独ソ開戦後は手不足で看護婦をしていた』と後年自伝に書いたり、帰国後のテレビ番組で語っているが、実際は劣悪な環境の刑務所に10年近くも幽閉されていた事と、「労役三年〜看護婦をしていた」の話は(嘉子の意思に関わらず)釈放の時に幽閉の隠蔽として指示された作り話だったことが、嘉子の死去後の1994年12月4日にNHKBS-2で放映された『世界わが心の旅ソビエト収容所大陸』(レポーター岸恵子)で現地取材により明かになっている。 |
| この番組のディレクターである今野勉はこの内容を『中央公論』1994年10月号に「岡田嘉子の失われた十年」として発表した。 |
| 戦後、モスクワ放送局(現在のロシアの声)に入局。 |
| 日本語放送のアナウンサーを勤め、11歳下の日本人の同僚(戦前の日活の人気俳優・滝口新太郎)と結婚、穏やかに暮らす。 |
| 1968年(昭和43年)には日本のテレビ番組でモスクワの赤の広場からの中継に登場(カラー放送)、往年と変わらない矍鑠とした口調で話し、またも日本中を驚かせた。 |
| そして、東京都知事の美濃部亮吉ら国を挙げての働き掛けで、1972年(昭和47年)、亡くなった夫・滝口の遺骨を抱いて35年ぶりに帰国。 |
| また、この時期に作詞した歌謡曲「アザミの花」は沢田亜矢子と純アリスの競作でレコード化された。 |
| しかし、1986年ソ連でペレストロイカによる改革が始まり「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と再びソ連へ戻る。 |
| 以降、死去まで日本へは二度と帰国しなかったが、日本のテレビ番組の取材には応じ、モスクワのアパートの自宅内も公開していた。 |
映画
| 髑髏の舞(1923年、日活向島)-お絹役。 |
| 隣の八重ちゃん(1934年、松竹蒲田)※ビデオ化-京子役。 |
ラジオ
| 静御前(ラジオ歌謡ドラマ、ナレーター、1937年11月29日、JOBK(大阪中央放送局))※おそらく亡命前の最後の仕事。 |
テレビドラマ
| ドラマ人間模様女たちの海(1977年、NHK)。 |
| 土曜ワイド劇場涙じっと見つめる目(1977年、テレビ朝日)。 |
| 太陽にほえろ!第321回(1978年、日本テレビ)。 |
| 土曜ドラマ松本清張シリーズ虚飾の花園(1978年、NHK)-栗宮多加子役。 |
| 東芝日曜劇場露玉の首飾り(1979年、TBS)。 |
著書
| 『女の自叙伝:ルパシカを着て生まれてきた私』婦人画報社、1986年、。 |
参考文献
| 加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー:「共産党宣言」から「民衆の地球宣言」へ』平凡社〈これからの世界史9〉、1994年、ISBN4-582-49529-X。 |
| 高橋三恵子(編著)・黒岩健而(述)『岡田嘉子との六〇年―黒岩健而語り・いとこの嫁さんはまぶしくて、孤独だった』風塵社、2002年、ISBN4-938733-99-4。 |
| 武田清「メイエルホリドの暗い環Ⅱ-そこにはいなかった佐野碩の影-」『大正演劇研究』第8号、明治大学大正演劇研究会、2000年 |
| 服部良一『ぼくの音楽人生:エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史』日本文芸社、1993年、ISBN4-537-02345-7。 |
| 林靖治(編)『女優事始め:栗島すみ子・岡田嘉子・夏川静枝』平凡社、1986年、ISBN4-582-28206-7。 |
| 平沢是曠『越境:岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ』北海道新聞社〈道新選書〉、2000年、ISBN4-89453-062-7。 |
| 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社〈キネマ旬報増刊〉、1980年刊。 |
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1937年
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静御前(ラジオ歌謡ドラマ、ナレーター、、JO... |
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1992年
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モスクワの病院で死去 |
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