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柴野栗山
江戸時代の儒学者・文人である。名は邦彦であり、字は彦輔である。讃岐国(現:香川県)で生まれた。寛政の三博士の一人として知られる。 |
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尾藤二洲
江戸時代後期の儒学者。名は孝肇、字は志尹、通称は良佐、別号は約山。 頼山陽の叔父にあたる。柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。 |
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松平定信
江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。 |
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古賀精里
江戸時代後期の儒学者。名は樸、字は淳風、通称は弥助。子に穀堂・侗庵、孫に謹一郎(茶渓)が居る。佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱... |
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寛政の三奇人
江戸時代の寛政期に活躍した、傑出した人物三人のこと。「奇」は「優れた」という意味であり、「奇妙な人物」という意味ではない。林子平-経世論家高山彦九郎... |
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頼春水
江戸時代中期・後期の儒学者、詩人。頼山陽の父。幼名は青圭、名は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、春水は大坂で用いた号で江戸では霞崖と称した。別号に... |
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林述斎
江戸時代後期の儒学者。林家8代。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(まつだいらのりもり)。諱は初め乗衡(のりひら)、後に衡(たいら)。字は熊蔵・叔紞・徳詮。... |
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山本北山
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片山北海
江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人である。京都の江村北海、江戸の入江北海とともに三都の三北海と称された。名を猷、字は孝秩、通称を忠蔵、号は北海の他に... |
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室鳩巣
江戸時代中期の儒学者。父は室玄樸。諱は直清、字は師礼、通称は新助(信助とも書く)、鳩巣と号し、又滄浪と号した。武蔵国谷中村(現・東京都台東区谷中)... |
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西山拙斎
西山拙斎(にしやませっさい、享保20年8月17日(1735年10月3日)-寛政11年11月5日(1799年12月1日))は江戸時代の儒学者。浦上玉堂と同じ備中国鴨方藩(現在... |
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頼山陽
頼山陽(らいさんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日)-天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は... |
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古賀謹一郎
日本の江戸時代末期から明治時代にかけての儒学者・官僚。本姓は劉(漢の高祖劉邦の末裔という)。諱は増(まさる)。官途は筑後守。字は如川。号は謹堂、茶... |
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高芙蓉
江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。日本における印章制度を確立して印聖と讚えられる。苗字の高は出身地の甲州高梨郡に因んで自ら名乗ったもので、... |
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亀田鵬斎
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(... |
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市河米庵
江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左... |
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谷文晁
江戸時代後期の日本の画家。江戸南画の大成者であり、その画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられる。名は正安。はじめ号は... |
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中井竹山
中井竹山(なかいちくざん、享保15年5月15日(1730年6月29日)-享和4年2月5日(1804年3月16日))は江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所懐徳堂の四代目... |
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亀井南冥
江戸時代の儒学者で、医者、教育者。筑前国姪浜(現在の福岡市)に生れる。諱は魯、字は道載、通称は主水、南冥はその号である。亀門学の祖。 |
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徳川頼房
江戸時代初期の大名。常陸水戸藩初代藩主、水戸徳川家の祖。徳川家康の11男。 |
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プロフィール
岡田寒泉(おかだかんせん、元文5年11月4日(1740年12月22日)-文化13年8月9日(1816年8月31日))は江戸時代後期の儒学者・江戸幕府旗本。名は恕(はるか)、字は子強、通称は清助、別号を泰斎。「 寛政の三博士」の1人として知られるが、寛政の改革後は幕府代官として治績をあげている。
生涯
| 西丸書院番で200石を給されていた岡田善富の次男として、江戸に生まれる。 |
| 兵学を村士淡斎に学び、淡斎の子である村士玉水に闇斎学を学ぶ。 |
| 1789年(寛政元年)に柴野栗山に続いて老中・松平定信の登用を請け、小普請から幕府儒官となる。 |
| 1790年(寛政2年)の寛政異学の禁が出ると、栗山とともに大学頭・林信敬を助けて、聖堂学問の取り締まり、朱子学の振興に努めた。 |
| 栗山・寒泉に尾藤二洲を加え「寛政の三博士」と称された。 |
| 松平定信が退いた後、1794年(寛政6年)には常陸の代官職に転じる。 |
| 寒泉が治めた地区は現在のつくばみらい市を始め7郡182ヶ村に及ぶ。 |
| 風俗の粛正や勤倹貯蓄を奨励した。 |
| 当時全国の農村で行われていた間引きを禁じ育児を奨めるため、幕府に願い出て産児養育料1000両の支給を受けた。 |
| 休耕田を耕し開墾に努め、飢饉に備えて米を備蓄させ、厳正に年貢を取り立てることも怠らなかったという。 |
| 寒泉は生神様としてあがめられ、1810年(文化7年)には筑波郡谷和原村下小目の小貝川堤防下に村民の手によって生祠が建てられた。 |
| 1812年(文化9年)に73歳で代官職を辞し、寄合となる。 |
| 幕府からの拝領地(揚場町)に戻り、家塾「寒泉精舎」を開き、亡くなる前年まで講義を行い、病を得たために自ら塾を閉じ、建物を壊して更地にしたあとに幕府に返上したという。 |
| 墓は東京都文京区大塚坂下町の大塚先儒墓所にある。 |
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