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プロフィール
- 岡田武史とは
- 幼年期〜躍進のユース時代、大学での「復活」
- 古河電工への就職、日本代表選出
- 指導者としての再出発、代表監督へのスクランブル登板
- W杯フランス大会
- Jクラブの監督、そして解説者として
- 再びのスクランブル、日本代表監督への復帰
- W杯南アフリカ大会
- JFA理事へ
- 所属クラブ
- 指導経歴
- 指導者としてのスタイル・エピソード
- その他のエピソード
- 関連サイト
岡田武史(おかだたけし、1956年8月25日-)は日本の元サッカー選手、指導者。現在は日本サッカー協会理事。2007年8月24日より2007年12月14日まで日本エンタープライズの社外取締役。「岡ちゃん」の愛称で知られる。メガネがトレードマークで、現役時代にはメガネを外さずプレーしていたほどである。監督としては以前はジャージ姿で指揮を執っていたことでも知られていたが、2008年に日本代表監督に復帰してからはスーツ姿で指揮を執ることが多くなった。
幼年期〜躍進のユース時代、大学での「復活」
| 大阪府大阪市(香川県となっていることもある)出身。 |
| 帝塚山学院小学校時代はホークス子供会に入会して野球に明け暮れ、南海ホークスを応援しに大阪球場へ通う野球少年だった。 |
| ホークスではファースト、学校のクラブではピッチャーであった。 |
| (ホークス子供会では一学年下に岡田彰布も所属していた)。 |
| しかし中学に進学すると、野球部の上下関係の厳しさを目の当たりにして「自分には向いていない」と考え、当時メキシコオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中するようになる。 |
| 天王寺高校入学後もサッカーを続け、その才能を嘱望されるプレーヤーとして名を馳せるようになる。 |
| 3年生の時にはユース代表に抜擢され(高校生で選出された者は岡田を含め3名のみ)、クウェートで開かれたAFCユース選手権に出場を果たした。 |
古河電工への就職、日本代表選出
| 岡田はマスコミ業界への就職を志望していたが叶わず、1980年、早稲田大学政治経済学部卒業と同時に古河電工に入社。 |
| 社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。 |
| 大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍し、1986年のアジアクラブ選手権優勝にも貢献した。 |
| また1982年、インド・ニューデリーで開催されたアジア大会にA代表として出場。 |
| 当初発表された代表メンバーに岡田の名は無かったが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により岡田が追加招集された。 |
| 背番号は前田の9をそのまま背負った。 |
| この大会で準々決勝にまで駒を進めた日本代表は0-1でイラク代表に破れたものの、岡田自身は2試合に起用され、1次リーグの対韓国代表では代表初にして代表時代唯一のゴールまで決めている。 |
| その後も日本代表に選出され続け、ロサンゼルス五輪予選、メキシコワールドカップ予選などに出場。 |
| 最終的に国際Aマッチのキャップは21を数えた。 |
| 1990年の時には34歳と、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田の転機となった試合が古河電工がバイエルン・ミュンヘンと行った親善試合である。 |
| その向上心の強さ、現役続行への固い意志は衰えることなく、この試合でも活躍した彼だったが試合は善戦の末1-2で破れる。 |
| 「海外トップチームとの対戦」を通じてその埋めがたい差を身を以て実感した岡田は現役引退を決意。 |
| 指導者として、「日本人がこのような海外のチームを相手にどうしたら勝てるようになるのか」と模索し続ける現在の彼のスタートラインともなった。 |
指導者としての再出発、代表監督へのスクランブル登板
| 古河電工のコーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせた彼は1992年にドイツへとコーチ留学する。 |
| 1993年に帰国後はJリーグ発足に沸く日本サッカー界に戻り(岡田は後に「浦島太郎になったようだった」と述懐している)、古巣・古河が母体となったジェフ市原でコーチを務めた。 |
| 清雲栄純監督の下で主にサテライトチームに携わる。 |
| この年に行われたアメリカワールドカップ・アジア最終予選イラク戦の、NHKBS1でのスタジオ解説を田嶋幸三とともに務める。 |
| (ちなみに地上波でのテレビ東京系列のスタジオ解説は、釜本邦茂、柱谷幸一、森孝慈。 |
| 1995年にはサッカー日本代表コーチに抜擢される。 |
| 1994年に加茂周が日本代表チーム監督に就任した際、加茂は前任のファルカンのチーム計画を一旦白紙に戻し、前々任であるハンス・オフトが行ったチーム作りを継承すべく人材を集めていた。 |
| オフトの下でコーチをしていた経験のある清雲にもコーチの話があったが清雲は断り、その代わりに岡田を推薦。 |
| しかし加茂と岡田はほぼ面識がなく、また岡田は指導者としての経験が浅いので、やりがいを感じていたジェフでのコーチ業を優先すべくこの話を当初固辞していたが、清雲に熱心に薦められて代表のコーチに就任した。 |
W杯フランス大会
| 岡田の一大転機は1997年10月、フランスW杯最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂周監督が更迭された事から始まる。 |
| 岡田は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名される。 |
| 最初の1試合を乗り切った岡田は監督へと昇格を果たしたものの、当初は「急場凌ぎ」との見方が大勢を占めていた。 |
| しかし加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。 |
| 最終的にイラン代表との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から日本代表初の本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜)。 |
| この歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命される。 |
| 1998年の本戦直前に不振だった三浦知良や北澤豪をメンバーから外した事では当時その是非が議論を呼んだ。 |
| 本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、3戦全敗、得点も中山雅史による1ゴールのみでグループリーグ敗退。 |
| 大会終了後のテクニカルリポート作成を最後の仕事とし代表監督を退任した。 |
| なお、1998年5月31日メキシコ戦からW杯ジャマイカ戦までの国際Aマッチ5連敗は歴代ワースト記録である。 |
Jクラブの監督、そして解説者として
| 監督退任後、半年あまりの期間は衛星放送WOWOWにてイタリア・セリエA中継の解説を担当、取材で当時ユベントスを指揮していたマルチェロ・リッピ監督と対談し、サッカー観、戦術面での影響を受ける。 |
| また後に横浜FMにてJ1優勝を果たした際にリッピから祝電が届くなど交流を生むきっかけとなった。 |
| 1999年にJ2に降格したコンサドーレ札幌の監督に就任。 |
| 自身初となるJリーグの監督として、さらに前・日本代表監督ということもあり注目度・期待度が高かったが、就任1年目は5位に終わった。 |
| シーズン終了後、札幌監督就任から続いた采配時のスーツ着用をやめてジャージ着用に変え、自身の発想も転換した以外にも、チームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な改革に着手。 |
| 2年目の2000年にはこれらの努力が結実し、2位の浦和レッズに勝ち点12差をつけてJ2優勝・2年での1部復帰を果たす。 |
| チームとしてもJ2発足後初のJ1、自らも監督として初のJ1となった2001年は年間11位1stステージ:8位(勝ち点21、6勝3分6敗)、2ndステージ:14位(勝ち点13、4勝2分9敗)の成績だった。 |
| ここを区切りに監督を辞任し、解説者の視点からサッカーを見つめなおすこととなる。 |
| 札幌を指揮した期間にエメルソンや播戸竜二、山瀬功治特に、この年のJリーグ新人王に選ばれるなど大活躍を果たす。 |
| 、今野泰幸など若く有能な選手を発掘・起用した。 |
| さらにこの年、当時J2だった大分トリニータから獲得したウィル(24得点)が得点王に輝くなど、監督としての才能を十分発揮させた。 |
| 2002年はサッカー解説者として活動。 |
| FIFAワールドカップ日韓大会ではNHKの解説者を務め、フィリップ・トルシエ退任後の次期日本代表監督候補にも噂された。 |
| 2003年、横浜F・マリノス監督に就任。 |
| 2004年も1stステージを制し、Jリーグ史上初の3ステージ連覇の偉業を成し遂げる。 |
| 浦和と争ったサントリーチャンピオンシップでは1勝1敗で迎えたPK戦を制して、2年連続の年間王者に輝く。 |
| 2005年も優勝候補の一角に挙げられていたが、AFCチャンピオンズリーグやA3チャンピオンズカップとの過密日程、また代表戦における主力の離脱により順位は低迷。 |
| 成績低迷の責任を取り監督を辞任するとの観測も流れる中、2006年以降も横浜FMで監督を続投することが公式に発表された。 |
| 再浮上の切っ掛けが掴めないまま18節終了時点で自力優勝が消滅し、19節の大宮戦終了後に辞意を表明。 |
| 表面上は家族を亡くしたこと、および成績不振によるものとされているが、真の理由は強化方針を巡るフロントとの確執にあるとも言われている。 |
再びのスクランブル、日本代表監督への復帰
| 日本サッカー協会の特任理事として活動中、次期日本代表の日本人監督として名も挙がっていた中、2007年11月に日本代表のイビチャ・オシム監督が急性脳梗塞で緊急入院し、2008年2月のW杯予選で指揮を執ることが困難になり、小野剛日本サッカー協会技術委員長(当時)から後継監督として打診を受ける。 |
| その際、小野剛は、元浦和監督のホルガー・オジェックらがオシムの後任日本代表監督候補に上がる中、岡田に打診した理由として、(1)オシムが築いてきた土台の上に新しい色、個性を積み上げられる、(2)強烈なリーダーシップ、求心力を持っている、(3)翌年2月6日の予選まで与えられた時間が少ないためにコミュニケーション能力がある監督としての3点を挙げている。 |
| 2007年12月7日、日本代表監督再就任が当時日本サッカー協会会長だった川淵三郎(現同協会名誉会長)によって正式に発表され |
| なお、ワールドカップで通算成績が0勝3敗の監督が再度同じ国の代表監督をするのは史上初であった。 |
| 前回の在任時はコーチ陣と同じジャージ姿での采配が話題となったが、再就任後は2008年7月に日本サッカー協会会長に就任した犬飼基昭の指示でスーツ姿で指揮を執ることが多くなった(悪天候時はジャージまたはグラウンドコート姿で指揮を執ることもあった)。 |
W杯南アフリカ大会
| 240px|thumb|right|本大会出場を決めて歓喜する日本代表チーム(中央のスーツ姿が岡田)。 |
| 2009年6月6日、W杯南アフリカ大会アジア最終予選の第6戦。 |
| グループAをオーストラリア代表に次ぐ2位で通過し、日本代表を4大会連続4度目の本大会出場に導いた。 |
| 国内組で臨んだ2010年東アジアサッカー選手権では4チーム中で3位。 |
| また、5月24日に行われたキリンチャレンジ杯の韓国代表戦に0-2で敗退した後に、犬飼基昭日本サッカー協会会長に対して「進退伺い」ともとれる発言をしたとされることや。 |
| 岡田は今大会における目標を「ベスト4入り」と表明していたが、強化試合で結果が出せなかったことから、その目標は「非現実的」だとして国内外のマスコミに酷評され続けた、サポーターやマスコミに渦巻く不信感と低評価の中ワールドカップ本戦に臨んだ。 |
| しかし、格上と見られていたカメルーン代表と6月14日に行われた初戦では、前半に入れた1点を守り抜き、1-0で勝利した{{Citeweb|author=元川悦子|date=2010-06-15|url=http://www.jsports.co.jp/press/column/article/N2010061511492302.html|title=【日本代表】岡田監督の真骨頂。 |
| その後6月19日に行われたオランダ代表との第2戦は0-1で負けたものの、6月24日に行われたデンマーク代表との第3戦では、前半に2点を入れた後も終始リードを保ったまま3-1で勝利を収め |
| このサポーターやマスコミの多くが予想していなかった快進撃に、国内外のマスコミはこれまでの批判的な姿勢を一転し、岡田の采配を絶賛する論調ばかりとなっただけでなく |
| さらにインターネット掲示板やツイッター上を中心に、かつて岡田に対する非難や不信感を表明していた者からの「謝罪」の表明が相次ぐ事態となり、「岡ちゃん、ごめんね」という言葉は2010年の新語・流行語大賞にもノミネートされた。 |
| 日本サッカー界史上初のベスト8進出をかけたパラグアイ代表との決勝トーナメント1回戦は、90分では決着がつかず0-0のまま延長戦に突入した。 |
| しかし、日本代表としての様々な記録を残したチームを作り上げた手腕に対し、開幕前との評価とは一転して「名将」、「感謝」と称賛する評価が相次いだ。 |
| 日本代表監督としての契約が同大会を最後に切れる |
| また、一部ネットニュースでは人望の厚さや人脈の豊富さから「将来の日本サッカー協会会長へ」という声も出た。 |
JFA理事へ
| 当面は主に環境問題の担当となる見込み。 |
| また2010年8月にはWOWOWの専属サッカー解説者となることが発表され、現在同局のリーガ・エスパニョーラ中継の解説を担当している。 |
| 解説者就任に伴い開かれた記者会見では、海外から代表監督(本人は具体的な国名は挙げなかったが、メディアではカタール代表と伝えられた)のオファーを受けていたものの断っていたことも明らかにされた |
| 2010年11月、アジアサッカー連盟(AFC)より、日本人では桑原隆(1998年)、西野朗(2008年)以来3人目となるAFC最優秀監督賞を受賞。 |
所属クラブ
| 1972年-1974年-天王寺高校。 |
| 1976年-1979年-早稲田大学。 |
| 1980年-1990年-古河電工。 |
指導者としてのスタイル・エピソード
| 2008年、国内組で組んだ日本代表を率いた大学生との練習試合にて、流通経済大学に0-1で負けている。 |
| なお、横浜F・マリノス時代には天皇杯の市立船橋高校との試合で延長でも決着がつかず、PK戦まで追い込まれ辛勝したことがある |
| W杯南アフリカ大会抽選会会場にて、3ヶ月前に親善試合を行ったオランダのファンマルバイク監督と英語で話している時に、「ところで、日本の監督は誰だ?どこにいるの?」と言われ、まったく覚えられていないことが発覚。 |
| 2008年に川口能活に対して、代表内で競争させることもせずサブで残るか代表を離れるかの選択を迫った{{Citeweb|author=佐藤俊|date=2010-05-17|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/23510|title=なぜ加地亮は代表を引退したのか?消えぬ情熱とブラジルW杯への夢。 |
その他のエピソード
| 2010年7月21日には逗子市民栄誉賞を授与された。 |
| カブスカウト、ボーイスカウトに入っていた。 |
| フリーアナウンサーの堀尾正明とは高校時代にともにサッカー部に在籍していたこともあり練習試合で知り合い、その後、堀尾がメインキャスターを務めたNHKの「2002FIFAワールドカップ」の特別番組に岡田が解説として出演したこともあり親交があるNスタでのインタビュー(TBS、2010年7月2日)。 |
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1980年
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早稲田大学政治経済学部卒業と同時に古河電工... |
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1982年
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インド・ニューデリーで開催されたアジア大会... |
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