| 近衛管弦楽団(近衛秀麿が主催)のティンパニ奏者(学生のため入団はせず)としてデビューしている。 |
| 作曲家の山本直純は芸大で岩城の一年後輩に当たり、二人は大学時代からの悪友であった。 |
| 一足先に山本が他界したときに岩城は酷く悲しんだ。 |
| 山本と出会った頃、岩城は打楽器よりも指揮に興味を持つようになり、二人で「(芸大の)後輩達を騙し」て楽団を結成、その指揮者となった。 |
| 指揮に関する議論が白熱しすぎて大声で怒鳴りあうために議論する場に困り、二人でホモ用のホテルに入って議論していたところ、隣室の『カップル』から”やかましい”と怒られたことがあった(もちろん二人にはそのような性的指向はない)。 |
| N響から打楽器での入団を求められたが、「首席だったら」と条件を付けたところ呆れられ、無かったことになった。 |
| 翌年、「将来、指揮をやりたくありませんか」と誘われたため、二つ返事で指揮研究員として入団した。 |
| ちなみに、1959年にイーゴリ・ストラヴィンスキーがN響に客演した際には、志願して打楽器奏者として参加している(DVD化された「火の鳥」の公演でも写っている)。 |
| 指揮のデビューは外山雄三と一緒にN響を指揮している。 |
| 来日中のカラヤンに指導を受け、「オーケストラをドライブしようとするな。 |
| キャリーせよ」とアドバイスされたという。 |
| これは指揮を乗馬になぞらえたもので、ドライブとは手綱を絞って強引に馬を従わせること、キャリーとは手綱を緩めて馬の自由に任せながら、騎手の意図した進路に馬を導くことだという。 |
| 出典:岩城宏之著『フィルハーモニーの風景』(岩波新書、1990年)。 |
| オリヴィエ・メシアンから解釈を絶賛されるなど、現代音楽の印象が強い。 |
| しかし、海外の現代音楽を意欲的に振るよりも、主に存命の日本人作曲家を集中的に取り上げることが多かった。 |
| クセナキスの「ホロス」の初演を契機として海外の現代音楽の初演熱は冷めたものの、日本人作曲家の新作初演は、指揮と打楽器演奏の両面で、没するまで続けた。 |
| N響の指揮者としてデビューしたものの、初期の頃はなかなか指揮の仕事はもらえず、NHKラジオで放送されるムード歌謡曲などのポップスの指揮やアレンジの仕事などをもらって糊口を凌いでいた。 |
| この仕事では「水木ひろし」という名前をはじめ複数の変名を使っており、水木名義で発売された音源も存在する。 |
| 出典:岩城宏之著『棒ふりのカフェテラス』(文藝春秋社、1981年、p81-84)「水木」名義で仕事をしていたことについては後にエッセー等で告白しており、晩年は旧知であるペギー葉山など歌謡曲の歌手たちと競演するコンサートを行うことがあり、昔を懐かしんであえて「水木」名義で参加している。 |
| 生前、彼のティンパニ演奏は企業CFに使用されたことがあった。 |
| (美川憲一との共演)。 |
| ある演奏会に打楽器奏者として参加したとき、一緒にシンバルを担当した外国人の打楽器奏者がよく曲の内容を知らないでいたので(ある有名日本人作曲家の作品)、「Withme.Please!」(私と一緒にという意味だが、この場合、私がタイミングを目配せするという意味になる)と言っておいて、その奏者に間違った演奏をさせ恥をかかせたことがあったと、本人が楽しそうに語っていた。 |
| 後年この奏者とは彼が所属するオーケストラを岩城が指揮した時に再会をしている。 |
| メルボルンには、名前を冠した |
| メルボルン交響楽団時代にストラヴィンスキー作曲「春の祭典」の演奏で振り間違えたことがある。 |
| テレビ・コンサートの公開収録中、並の指揮者なら混乱しつつも何くわぬ顔で演奏を続け、自らの責任を回避しようとするところであるが、岩城はあえて演奏を中断し聴衆に向かって指揮を間違えたことを詫びた。 |
| 異例の事態に聴衆も楽員も凍りついていたが、テレビ用に編集しやすい部分をコンサート・マスターと相談し、楽員全員に演奏再開の箇所を告げた。 |
| すると聴衆だけでなく楽員からも大拍手が沸き起こり、岩城に対する同楽団の信頼はより固いものになったという。 |
| 当時メルボルンの電話帳の表紙になるほど市民に親しまれていた。 |
| 現代音楽の作品の初演のとき、お義理の拍手をした聴衆に「お義理の拍手は結構です」と言ったという。 |
| 世界で活躍する日本のスポーツ選手の応援に熱心であり、音楽監督を務めるオーケストラアンサンブル金沢で石川県出身の松井秀喜選手の応援歌を企画していた。 |
| 死去する直前には骨折で離脱した松井へエールを送っており、これが岩城が生前に出した最後の手紙だった。 |
| なお、彼の企画した応援歌は2006年に、公式応援歌『栄光(ひかり)の道(作詞:響敏也・作曲:宮川彬良)』として成就した。 |
| 著書も非常に多く、楽器運送業に関する執筆のために、実際に運送会社で働いたこともあった。 |
| あるハープ奏者がハープの運搬を依頼したところ、業者と一緒に岩城が現れ、依頼主は大いに驚いた。 |
| 1971年の第22回NHK紅白歌合戦ではエンディングの蛍の光の指揮を務めた。 |
| 晩年には自身の音楽活動の原点であったマリンバの演奏にも取り組むようになり、リサイタルも開き、ここでも多くの邦人作曲家に新作の委嘱・初演を行った。 |
| そのきっかけは 1982年、軽井沢音楽祭に音楽監督として参加する岩城が関係者との会合の席上、酔った勢いで自分のソロリサイタルを開くとぶち上げたことだったという。 |
| 本人はそのことを全く覚えていなかったが、岩城の話を真に受けた関係者たちによって勝手にポスターを作られてしまった。 |
| 芸大時代でマリンバ演奏を止めていた岩城には演奏できるレパートリーが皆無に等しく、武満徹・石井眞木・一柳慧に新作を委嘱し、なんとかリサイタルを切り抜けた出典:岩城宏之著『九段坂から 棒ふりはかなりキケンな商売』(朝日文庫、1994年 p36-40)。 |
| なおこの委嘱を通して生まれた一柳慧の「パガニーニパーソナル」は一柳の代表作の1つとして知られると同時に、マリンバ演奏のレパートリーとして広く定着した1作となった。 |
| 自著「九段坂から」の中で、それまでの人生の中で4回自動車事故を経験していたことを告白している。 |
| クナッパーツブッシュのような小さな動作でオーケストラを巧みに操るスタイルに終生憧れを持ち、実際ベルリン・フィル時代に試みたことがある。 |
| しかし後にウィーン・フィルの楽団員に「クナ(クナッパーブッシュ)も若い頃は指揮台から落ちるほど激しく動いていた。 |
| お前も年を取ればそうなるんだから、今のうちに暴れておけ!」と叱咤されたという。 |
| 1000-2000作品を手がけた初演魔とも言われたが、海外で初演された重要な作品も見張っていた。 |
| シュニトケの室内協奏曲第一番とシチェドリンのカルメン組曲は、1980年代末までは日本に関する限り知る人ぞ知る名作のような扱いだったが、オーケストラアンサンブル金沢で演奏されTV放映されてから急激に人気が上がっている。 |