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島津氏
資料種別 : 一般書 書 名 : 琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻 シリーズ名 : 著者名 : 上里 隆史/著 出版者 : ボーダーインク ... |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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比企能員(ひきよしかず)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。阿波国、または安房国出身とされる。藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一... |
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島津斉彬
江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主(在任:嘉永4年(1851年)-安政5年(1858年))。島津氏の第28代当主である。 |
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大友能直
鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。 |
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島津久経
島津久経(しまづひさつね)は鎌倉時代中期の武将。島津氏の第3代当主。鎌倉幕府御家人。第2代当主・島津忠時の嫡男。初名は久時。 |
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島津忠宗
島津忠宗 【しまづ-ただむね】 1件の用語解説(島津忠宗で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 島津忠宗 しまづ-ただむね &... |
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一条能保
一条能保(いちじょうよしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、丹波守藤原通重の長男。一条二位入道と号す。 |
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島津久光
江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。... |
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島津貴久
戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。 |
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プロフィール
島津忠久(しまづただひさ)は平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府 御家人。 島津氏の祖。正式には惟宗忠久という。出自・生年については諸説ある。
生涯
| 治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見である(『山槐記』)『山槐記』には「左兵衛尉忠久」と記されている。 |
| 元暦2年(1185年)の地頭補任状に「左兵衛尉忠久」と記されていることから『山槐記』の「左兵衛尉忠久」は惟宗忠久を差すものであると推測される。 |
| 忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子だった縁で頼朝に重用されるようになってくる。 |
| 文治元年(1185年)3月、比企能員の手勢として平家追討に加わっていたと見られ、恩賞として元暦2年(1185年)6月に頼朝より伊勢国波出御厨、須可荘地頭職に任命される。 |
| 島津家文書では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている。 |
| 同年8月、摂関家領日向国島津荘下司に任命される父方と考えられる惟宗氏には平安末期「薩摩」「大隅」「日向」などの国司に任じられた者が数名がおり、忠久はこの延長線上にたって領家ならびに頼朝から島津荘下司に任じられたとの見解もある。 |
| (野口実『惟宗忠久をめぐって』)。 |
| これが忠久と南九州との関係の始まりとなる。 |
| 翌文治元年(1186年)信濃国塩田荘地頭職に任命される。 |
| 文治元年(1189年)の奥州合戦に頼朝配下の御家人として参陣し、建久元年(1190年)の頼朝の上洛の際にも行列に供奉している。 |
| 建久8年(1197年)大隅国、薩摩国の守護に任じられる。 |
| 建久9年(1198年)左衛門尉に任官される。 |
| これ以降、忠久は島津荘を名字の地として島津(嶋津)左衛門尉と称する。 |
| 頼朝死後の建仁3年(1203年)9月、比企能員の変(比企の乱)が起こり、忠久はこの乱で北条氏によって滅ぼされた比企能員の縁者として大隅、薩摩、日向国の守護職を没収された。 |
| この時、忠久は台明寺の紛争解決のため、守護として初めて任地の大隅国に下向しており、鎌倉には不在であった。 |
| 忠久は同年10月19日、務めを終えて戻る上洛の無事を祈り、台明寺に願文を収めている。 |
| 比企の乱後の忠久は在京していたと見られ、その間の元久2年(1205年)に同じ比企氏縁戚でありながら比企の乱で北条氏側の討手となった京都警固の平賀朝雅と、能員を謀殺した北条時政が畠山重忠の乱・牧氏事件で失脚している。 |
| 比企の乱から10年後の建暦3年(1213年)2月に三代将軍・源実朝の学問所番となり、御家人としての復帰が見られる。 |
| 同年6月の和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡の古郡氏の所領である波加利荘(新荘)を拝領した(本荘は甲斐源氏の棟梁武田氏が伝領)。 |
| 同年7月に薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたと見られるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま、その二国の復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている。 |
| 承久年(1221年)の承久の乱後は信濃国太田荘地頭職と越前国守護職を獲得した。 |
| この頃には、惟宗姓に代えて藤原姓を称している(母方とされる比企氏は藤原氏の系統)。 |
| 元仁元年(1224年)八十島使の随兵を務め、嘉禄元年(1225年)検非違使に任じられ、嘉禄2年(1226年)には豊後守となった。 |
| 安貞元年(1227年)6月18日の辰の刻、脚気と赤痢により死去(『吾妻鏡』)。 |
| 墓は現在鎌倉市西御門の源頼朝の墓の右隣に寄り添うように建てられている。 |
出身
| 島津家に伝わる史料では、忠久は母が源頼朝の側室で比企能員の妹丹後局(たんごのつぼね)で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたとされる。 |
| 但し、この言い伝えはいわゆる「偽源氏説」の一種とされ、現在、学会でこれを史実としている人はほぼいないこの落胤説に関わって大阪・住吉大社境内で誕生したとされ、同大社境内に史跡として島津忠久公誕生の地とする「誕生石」がある。 |
| 母に関しては忠久は建仁3年(1203年)の比企能員の変に連座して処分を受けているので、比企氏縁者(能員義姉妹の子)であるとみなされ、『吉見系図』に記されている通り比企尼長女の丹後内侍であるのが正しいとされている。 |
| 将軍学問所番務めや陰陽道に関わる行事の差配を任されている事から、忠久が公家文化に深い理解を持っていたと考えられる。 |
| 生年については『島津系図』などによると治承3年(1179年)とされているが、治承3年時点で『山槐記』や『玉葉』に「左兵衛尉忠久」として記載されていることから、1179年には任官されるに足りる成人男子であったと思われるので、生年は治承3年より十数年以上遡っているものと推定される。 |
参考文献
| 朝河貫一 「島津忠久の生ひ立ち ━中低等批評の一例━」ISBN9784905849742。 |
| 江平望 『拾遺島津忠久とその周辺 中世史料散策』 高城書房、2008年。 |
| 野口実 『惟宗忠久を巡って』「中世東国武士団の研究」所収。 |
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1179年
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任官されるに足りる成人男子であったと思われ... |
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1185年
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比企能員の手勢として平家追討に加わっていた... |
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