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つながりの強いひと
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島津義弘
島津義弘公とは?
天文4年(1535)島津家第15代貴久公の次男として、鹿児島県南部に位置する伊作(いざく)の亀丸(かめまる)城にて生まれる。祖父、日新公... |
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島津家久
戦国時代・安土桃山時代の島津氏の武将。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。 |
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島津義久
親
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後... |
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島津氏
資料種別 : 一般書 書 名 : 琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻 シリーズ名 : 著者名 : 上里 隆史/著 出版者 : ボーダーインク ... |
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伊集院忠棟
伊集院忠棟(いじゅういんただむね、生年未詳-慶長4年3月9日(1599年4月4日))は戦国時代から安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。伊集院忠朗の孫、伊集院忠... |
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島津貴久
戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。 |
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島津久保
戦国時代の武将。豊臣秀吉の九州征伐後、日向国諸県郡に所領を与えられたが一時的ではあるが豊臣氏の人質となる。早くから伯父・義久、父・義弘から後継者と... |
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細川忠興
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て豊前国小倉藩初代藩主、肥後国熊本藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏... |
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立花宗茂
安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。大友氏の一族。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武... |
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伊集院忠真
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。伊集院忠棟の嫡男。幼名は源次郎。妻は島津義弘の次女(御下(おした))。 |
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真田信繁
安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年齢の49歳から逆算されたもので、月日は不明。武田信玄の家臣であった真田幸隆の... |
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福島正則
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 |
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宗茂
宗茂(そうしげる、1953年1月9日-)は日本の気功師。宮崎県延岡市にて「気功健康塾」を主宰。元マラソン選手、陸上競技指導者。大分県臼杵市出身。血液型はAB... |
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島津歳久
島津歳久(しまづとしひさ)は戦国時代の武将。島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置家の祖にあたる。 |
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東郷重位
東郷重位(とうごうちゅうい/しげかた、永禄4年(1561年)-寛永20年6月27日(1643年8月11日))は薩摩藩の武士にして示現流剣術の流祖。幼名は弥十郎、通称は... |
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前田利長
安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。加賀藩祖である前田利家の長男(嫡男)として生まれる。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘... |
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森長可
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁、八幡太郎源義家の六男・源義隆を祖とする森氏。父は... |
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新納忠元
新納忠元(にいろただもと)は戦国時代の武将。島津氏の庶流の一族・新納氏に生まれ、智勇に優れたことから重用された。 |
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島津豊久
安土桃山時代の武将。父は島津家久、母は樺山善久の娘。妻は島津忠長の娘。幼名は豊寿丸。字は又七郎。初期の名は忠豊。官位は侍従、中務大輔。法名は天岑昌運。 |
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仙石秀久
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。... |
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プロフィール
- 島津忠恒とは
- 経歴
- 人物
- 逸話
- 島津忠恒の登場する創作物
島津忠恒/島津家久(しまづただつね/いえひさ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。『絵本太閤記』には、島津亦七郎忠常とある。戦国大名としての 島津氏を成長させた 島津貴久の孫にあたる。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在し、区別のため初名の忠恒で呼ばれることが多い。
経歴
| 天正4年(1576年)11月7日、島津義弘の三男として生まれる。 |
| 義弘の兄・島津義久に男児がなかったことと、文禄2年(1593年)、兄の島津久保が朝鮮で陣没したため、豊臣秀吉の指名により後継者と定められた。 |
| 後継者となる前は、蹴鞠と酒色に溺れる日々を送っており、朝鮮出兵中の義弘から書状で注意を受けていた。 |
| しかし、後継者になると父や伯父たち同様に武勇に優れ、慶長の役では慶長3年(1598年)、父・義弘に従って8,000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せている(泗川の戦い)。 |
| 『絵本太閤記』によると、城に攻め寄せてきた、董一元率いる明の大軍4万余りに対して、逞兵1千を率い、城外に討って出て、縦横無尽に槍を突き立てたり、多くの明の兵士を切り捨てたりしたという。 |
| 城を守っていた大将の義弘と兵5千も、機を見て城外に討って出て、遮二無二突き破り、明人の首3万を討ち取ったというこのエピソードは寛文10年(1670年)頃に薩摩藩家老・島津久通(島津忠長の孫)が編纂した『征韓録』にも所収されている。 |
| のしまんず」と云ったとされる。 |
| 慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで父の義弘が西軍に属したため、講和交渉をしていた伯父の義久に代わり、徳川家康に謝罪のために上洛し、本領を安堵された。 |
| 同年、薩摩の内城に入り、父・義弘と伯父・義久より家督を継いだが、実権は元和5年(1619年)までは父・義弘に握られていた。 |
| 慶長11年(1606年)、徳川家康から偏諱を受け、家久と名乗る。 |
| 慶長14年(1609年)、3,000の軍勢を率いて琉球に出兵し、占領して付庸国とした(琉球との融和政策を図る義久とは対立していたとされている)。 |
| また、明とも密貿易を執り行い、鹿児島城(鶴丸城)を築いて城下町を整備したり、外城制や門割制を確立するなど薩摩藩の基礎を固める一方で、幕府に対しては妻子をいちはやく江戸に送って参勤交代の先駆けとした。 |
| 慶長18年(1613年)、奄美群島を琉球に割譲させ、代官や奉行所などを置き、薩摩藩の直轄地とした。 |
| 寛永15年(1638年)、死去。 |
| 殉死者が9名出ている。 |
| 家督は次男の光久が継承した。 |
人物
| 和歌・連歌・茶の湯を嗜み、剣術は東郷重位から学んだとされる。 |
| 島津顕彰会「島津歴代略記」鹿児島湾の別名である錦江湾という呼び名は、忠恒が詠んだ「浪のおりかくる錦は磯山の梢にさらす花の色かな」という歌に由来するとされる。 |
| 父・義弘と違って酷薄な性格であったようで、慶長4年(1599年)には対立していた家老・伊集院忠棟を京都伏見の島津邸で自らの手で謀殺し、同年に反乱(庄内の乱)を起こしたその子・伊集院忠真とは一旦は和解したが、慶長7年(1602年)、日向国の野尻で催した狩りの最中に射殺した。 |
| ちなみに忠真は忠恒(家久)の妹婿なので義兄弟の関係にあり、文禄・慶長の役では共に闘った仲でもあった。 |
| 正室であり、いとこ同士でもある亀寿姫(父は島津義久)とは不仲であった上に二人の間に実子ができないため、幕府にかけあって2代将軍・徳川秀忠の子、国松丸(後の徳川忠長)を養子にしようと画策した。 |
| 後継者問題は後々まで尾を引き、忠恒(家久)による義久の家老・平田増宗の暗殺も、家督相続にからんだものといわれている。 |
| 隠居中とはいえ家中に影響力を持つ伯父であり義父でもある義久の生存中は側室を持つことを遠慮したと言われている山本博文『島津義弘の賭け』が、慶長14年(1609年)に尚寧王を連れて江戸に東上した機会に側室を囲うことに関して江戸幕府の言質を得ようとして成功している桃園恵真「持明夫人」(『鹿児島大学法文学部研究紀要』1所収)。 |
| 慶長16年(1611年)に義久が死去するとすぐに亀寿姫を国分城に別居させ、あてつけのように側室を8人抱えた。 |
| それら側室との間に39歳から死ぬまでの間に33人もの子女を儲け、それらの子を次々と分家の家督相続や重臣らの養子や妻として押しつけ、自身に権力を集中させる事に成功した。 |
逸話
| この刀はかつて島津貴久が鹿児島城に運ぼうとしていたところ、御神託により、伊作にとどめ置かれたといういわくつきの刀である。 |
| 勝手に持ち出した事は亀寿の報告によって義弘の知るところとなり、その後忠恒は義弘にきつく怒られている。 |
| (「旧記雑録」後編4−204)-->。 |
| 正妻である亀寿とは不仲であった。 |
| 彼女が亡くなったおりに、亀寿付きの奥女中宛に以下のような和歌を送っている。 |
| 「あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖のいつはりもかな」。 |
| 意訳:はかない世の中よ、亀寿はこの神無月に亡くなってしまった。 |
| 涙で袖が濡れるほどか、といわれるとそこまでではないが。 |
| 実際に妻亀寿の墓を建てていないことや、福昌寺跡にある島津家歴代の墓の中で,島津忠恒/亀寿夫妻の墓のみが並んでいない事からも、亀寿との不仲や、彼女を冷遇していたことが伺える。 |
| 継室の一人である島津忠清女の生母(堅野カタリナ)が隠れキリシタンであることが発覚し、同時に隠れキリシタンであることが発覚したその一族と共に1633年に種子島に流罪となっている。 |
島津忠恒の登場する創作物
| 琉球の風(1993年NHK大河ドラマ演:竪山博之)。 |
| 葵徳川三代(2000年NHK大河ドラマ演:中村俊介)。 |
| 大坂ハイスクール高校与太郎爆進ロード(2010年バラエティ番組「戦国鍋TV」の番組中ドラマ演:バカリズム)。 |
| 『信長の野望』シリーズ(コーエー)。 |
| 『太閤立志伝』シリーズ(コーエー)。 |
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1593年
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兄の島津久保が朝鮮で陣没したため、豊臣秀吉... |
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1598年
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父・義弘に従って8,000の寡兵で明軍数万を破... |
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