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島津貞久
鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。島津氏第5代当主。薩摩・大隅・日向の守護大名。島津忠宗の嫡男。領国の在地化を進め、島津氏の守護大名としての基礎... |
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島津元久
南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。大隅・日向・薩摩守護。島津氏第7代当主(奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男で、母は伊集院忠国の娘... |
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島津久豊
室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第8代当主。6代当主・島津氏久の次男で元久の弟。子に忠国、用久、季久。応永18年(1411年)に兄が... |
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島津師久
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。島津氏の第6代当主。父は第5代当主・島津貞久(師久は3男)。母は大友親時の娘。兄に川上頼久、宗久、弟に氏久。... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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少弐冬資
徐々に南朝勢力を駆逐し、1374年には島津氏久、大友親世、そして少弐の援軍を得て一挙に南朝勢力を駆逐しようとしたが、冬資はこの頃、了俊と仲が悪かったた... |
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懐良親王
後醍醐天皇の皇子である。母は二条為道の娘。南北朝時代、南朝の征西大将軍であったことから征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。肥後国隈府... |
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島津忠国
室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第9代当主。父は8代当主島津久豊、母は伊東祐安の娘。子に友久、立久、久逸、桂勝久、娘(伊集院煕... |
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大友親世
南北朝時代から室町時代前期にかけての豊後の守護大名。大友氏の第10代当主。第8代当主・大友氏時の子。第9代当主・氏継の弟。妻は大内義弘の娘。子に第12代... |
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島津忠久
島津忠久(しまづただひさ)は平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式には惟宗忠久という。出自・生年については諸説ある。 |
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島津伊久
南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。薩摩守護。官位は上総介。法名は久哲、道哲。島津氏第7代当主(総州家第2代当主)。島津氏第6代当主(総州家初代当... |
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島津義久
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後... |
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伊集院頼久
室町時代中期の薩摩の人。薩摩島津氏の一族、伊集院氏の7代当主。父は6代久氏。子に煕久(為久、7代)、女(島津宗家8代当主久豊の室)。伊集院氏7代当主。6... |
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南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
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島津忠宗
島津忠宗 【しまづ-ただむね】 1件の用語解説(島津忠宗で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 島津忠宗 しまづ-ただむね &... |
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島津貴久
戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。 |
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島津忠昌
島津忠昌(しまづただまさ、1463年5月21日(寛正4年5月3日)-1508年3月16日(永正5年2月15日))は島津氏の第11代当主。第10代当主・島津立久の子。官位は陸... |
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島津家久
戦国時代・安土桃山時代の島津氏の武将。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。 |
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島津立久
室町時代の守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。子に忠昌。幼名は安房丸、通称は又三郎。官位は修理亮、陸奥守。父... |
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島津久経
島津久経(しまづひさつね)は鎌倉時代中期の武将。島津氏の第3代当主。鎌倉幕府御家人。第2代当主・島津忠時の嫡男。初名は久時。 |
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プロフィール
島津氏久(しまづうじひさ)は、 南北朝時代の武将、守護大名である。 島津氏6代当主(奥州家初代当主)、大隅・日向・筑後守護。5代当主 島津貞久の4男。母は 大友親時の娘。 川上頼久、宗久、師久の弟。元久、久豊の父。
生涯
| 足利尊氏より偏諱を賜い氏久と称す。 |
| 父貞久、兄師久らと共に足利尊氏ら北朝に属し南朝と戦い、観応の擾乱の影響で起きた足利直冬と一色範氏の抗争では範氏に従軍、正平6年/観応2年(1351年)に直冬軍と戦ったが負傷している。 |
| 正平11年/延文元年(1356年)に南朝に転向、三条泰季と共に直冬方の畠山直顕の岩屋城を攻撃、畠山直顕と大隅を巡って争った。 |
| その後北朝に帰順したようで、正平18年/貞治2年(1363年)に父から大隅守護職を譲られている。 |
| 永和元年/天授元年(1375年)、室町幕府が九州の南朝勢力制圧のために派遣した九州探題今川了俊が菊池氏討伐のために九州三人衆を招聘すると、大友親世と共に8月に着陣。 |
| 了俊に着陣を拒んだ少弐冬資の説得を依頼されて冬資を招くが、了俊が冬資を謀殺する(水島の変)と、帰国して了俊と敵対、了俊の南九州制圧に抵抗し、翌永和2年/天授2年(1376年)に大隅守護職を解任された。 |
| 同年6月、了俊の5男満範が南九州の征討に向かい、肥後の相良前頼や大隅・日向・薩摩の国人衆を招集しながら日向へ向かい、従弟の北郷義久が籠城した都之城を翌永和3年/天授3年(1377年)に包囲した。 |
| 氏久はこれに対して9月に甥の総州家7代島津伊久と一緒に了俊に降伏、了俊・満範父子に属する南九州国人一揆の調略を行い、天授4年/永和4年(1378年)3月に了俊と決別、満範が国人一揆と共に都之城を再包囲すると志布志城から後詰に向かい、翌天授5年/康暦元年(1379年)3月1日と3月3日の激戦の末に勝利(蓑原の合戦)、大隅姫木城も落として満範を都之城から追い落とした。 |
| 弘和元年/永徳元年(1381年)10月に再度北朝へ復帰したが、国人一揆の動揺につけこんで一揆勢の所領を侵略、相良前頼の南朝への寝返りもあって国人一揆を崩壊させた。 |
| 至徳4年/元中4年(1387年)、60歳で死去。 |
| 氏久は大隅守護に復帰することはなかったが、嫡男の元久が大隅守護に復帰した。 |
| 馬術の達人で馬術書『在轡集』を書いたと言われる。 |
| 居城を東福寺城から清水城に移し、以後は島津氏の居城となった。 |
| 墓は鹿児島県志布志市の即心院跡、鹿児島県鹿児島市の福昌寺跡。 |
| 法名は玄久齢岳。 |
参考文献
| 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典7しな-しん』吉川弘文館、1986年。 |
| 都城市史編さん委員会編『都城市史通史編中世・近世』都城市、2005年。 |
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1351年
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直冬軍と戦ったが負傷している |
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1375年
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室町幕府が九州の南朝勢力制圧のために派遣し... |
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