| 慶長3年(1598年)の秀吉死後、慶長4年(1599年)には義弘の子・島津忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こす(庄内の乱)などの御家騒動が起こる。 |
| このころの島津氏内部では、薩摩本国の反豊臣的な兄・義久と、前記庄内の乱に際しても大阪に留まり親豊臣あるいは中立に立つ義弘の間で、家臣団の分裂ないし分離の形がみられる。 |
| 義弘に本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原の戦い前後で義弘が率いたのは大坂にあった少数の兵士でしかなかった。 |
| 慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じる。 |
| しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の意志を翻して西軍への味方を決意した。 |
| こうして、義弘とその手勢は西軍に参戦する。 |
| だが、石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。 |
| 美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日(10月20日)の作戦会議で義弘が主張した夜襲策なお、義弘が夜襲を献策した理由は、寄せ集めの西軍では正面からの野戦で徳川軍と戦うことが危ぶまれ、家康の部隊は9月14日(10月20日)に到着したばかりで一部は追いついておらず(「十四日、内府(家康)、赤坂へ着陣……鉄砲衆・使番衆は赤坂へ夜中に着」(『慶長記』))、さらにこの時点で徳川秀忠率いる別働隊も到着していなかったため、この夜の内が好機であったとするもの。 |
| 宇喜多秀家も夜襲策に賛成であったという。 |
| しかし百戦錬磨の義弘が危険を伴い下手をすれば追撃のおそれもある夜襲を献策するとは考えにくく、これに関しては後世の創作ではないかとする説もある(夜襲説の出典は『落穂集』だが、『朝野旧聞裒藁』の編者はこの部分を載せながらも、創作の可能性が高いとしている)。 |
| が採用されないなど、義弘が戦意を失うようなことが続いた、とされる。 |
| 9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦いには参加しながらも戦場で兵を動かそうとはしなかった(一説にはこの時の島津隊は3,000余で、松平・井伊隊と交戦していたとする説もある)。 |
| 三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼したため義弘や豊久は激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失った、ともされている。 |
| 関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。 |
| しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。 |
| その結果、この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。 |
| この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の島津豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。 |
| 島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。 |
| 島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。 |
| このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して島津豊久と激戦を繰り広げた。 |
| その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。 |
| この逃走劇に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した直政はこのとき受けた傷がもとで後年病に倒れ、死去したとされている。 |
| また忠吉が負傷したのは開戦当初とする説もある。 |
| しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。 |
| このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。 |
| その結果、甥・島津豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦並びに東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。 |
| 義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。 |
| 生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。 |
| また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている島津修久著、『島津義弘の軍功記(増補改訂版)』。 |
| この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。 |