| 中学・高校・大学と、野球に熱中し、東大時代は神宮球場のスター選手として、また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであった。 |
| 東大卒業後、に内務省に入省する。 |
| 主に警察畑を歩み、大阪府内務部長を務めていた1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾した。 |
| 各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張していた前任者の泉守紀軍人嫌いの泉は、ことあるごとに軍部と衝突し、政府の県民疎開の方針に公然と反対したため、疎開は立ち後れ、10・10空襲に際しては県庁に出張せず、終始防空壕に避難し、空襲後はいち早く那覇から脱出するなど、警察部を除く県政に大きく支障をきたしていた。 |
| には、出張中にも係わらず、香川県知事の辞令が出された。 |
| 沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。 |
| 沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。 |
| 俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。 |
| 」として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ。 |
| 同年1月31日、島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった。 |
| 同年2月下旬には台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3000石分の確保に成功。 |
| 翌3月に、蓬莱米は那覇に搬入された従前の文献には「米軍の攻撃が激しくなり、現物は届かなかった」と記述されている場合があるが、田村洋三『沖縄の島守』によればこれは誤りであるとする。 |
| 同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始めた。 |
| 以後、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を移転させながら指揮を執った。 |
| 軍部とは密接な連携を保ちながらも、およそ横柄なところのない人物で、女子職員が洗顔を勧めると「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」といい、他の職員と同様、米の研ぎ汁に手拭いを浸して顔を拭っていた。 |
| 陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになる。 |
| 」と反対の意思を示していた。 |
| 同年5月末の軍団長会議に同席した島田は、撤退の方針を知らされ、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である。 |
| 」と説いて会議を締め括ったという大田昌秀著「これが沖縄戦だ」より。 |
| 同年6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい。 |
| 」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた。 |
| 同年6月26日、島田は荒井退造警察部長とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たきり消息を絶ち、今日まで遺体は発見されていない。 |
| 元兵士による「(島田は)壕で自決した」との証言もある。 |
| また、9月1日付の沖縄タイムスに掲載された記事によれば、機関銃隊の兵長だった山本初雄が、「私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。 |
| 日没時、食糧さがしに海岸沿いを糸満方向へ約二百メートル行った。 |
| 海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて“知事さんがはいっておられますよ”という。 |
| 奥行き六メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。 |
| “知事さんだそうですね”とたずねると“私は島田知事です”と胸から名刺を出した。 |
| “負傷しているんですか”ときくと、“足をやられました”といわれた。 |
| 知事さんが“兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。 |
| 何も食べ物がないときですよ。 |
| 二つもらって“元気にいて下さい”といって自分のごうに戻ったのを忘れません。 |
| その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行った。 |
| ところが、先日と同じ地方人が“知事さんはなくなりましたよ”という。 |
| ごうにはいるとヒザのそばに短銃があった。 |
| 右手から落ちたような感じで“ああ自決したんだなあ”と思った。 |
| 合掌して知事さんのごうを出ました。 |
| 知事は白の半そでシャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。 |
| 髪、ヒゲは大分のびていた」と証言をしたこれに関しては、田村洋三著『沖縄の島守』にも掲載されている。 |
| 最後の壕は、轟の壕で、戦前最後の沖縄県庁という言い方もされている。 |