| 1996年6月、日本陸上競技選手権大会では女子10000mに出場。 |
| 当時の日本新記録で優勝した鈴木博美に惜しくも敗れたが2位に入り、この成績でアトランタオリンピック代表に選ばれた。 |
| その後川上は、同年8月開催されたアトランタ五輪女子10000m本番の予選レースを通過。 |
| そして決勝レースでも、五輪初出場とは思えない積極的な走りを見せる。 |
| 終盤に入ると、川上はさすがに苦しい表情になりながらも粘り強く走り続けた。 |
| 結果、五輪メダル獲得には届かなかったものの、千葉真子の5位に次いで、川上も31分23秒23の記録で見事7位に食い込んだ(鈴木博美は16位で入賞ならず)。 |
| 長距離トラック種目で日本女子選手が2人同時に入賞するのは、五輪史上初めての快挙であった。 |
| その後も、1998年バンコクアジア大会女子10000mでは、優勝を果たして金メダルを獲得。 |
| また1997年世界陸上アテネ大会女子5000m代表(15位)、1999年世界陸上セビリア大会女子10000m代表(12位)と、五輪以外の国際大会にも出場を果たしている。 |
| 又駅伝競走などでも活躍し、1996年、1997年、1999年と12月に岐阜県で行われる全日本実業団対抗女子駅伝大会で、OKI(当時沖電気宮崎)の3度の総合優勝にも貢献した。 |
| 1999年3月、名古屋国際女子マラソンへ川上自身初めてフルマラソンに出走する。 |
| レース前半はペースメーカーのハイペースについていき、25km地点で先頭に立つも、その後は後続の選手に抜かれ2位に下がるとズルズルと後退し、後半は完全にスローダウン。 |
| ゴールタイムは2時間34分台で9位と平凡な成績に終わり、ゴール後本人曰く「もう死にました。 |
| 地獄を見ました」とマラソンの難しさを痛感する。 |
| 結局川上のフルマラソンはこの名古屋が最初で最後となった。 |
| 翌2000年4月、シドニーオリンピック女子10000mの選考会だった兵庫リレーカーニバルに出走。 |
| レース終盤は渋井陽子らとデッドヒートとなったが、最後の100mで川上が抜け出して優勝。 |
| アトランタに続く2大会連続の五輪出場を決めた。 |
| 又同年7月はアメリカの大会で、女子10000mで当時鈴木博美の持つ日本記録を4年ぶりに更新した。 |
| 同年9月のシドニー五輪女子10000m本番でも前大会同様に予選レースを通過、決勝レースではメダルも期待されていた。 |
| しかし決勝は序盤から超高速なペースとなり、川上も含め日本女子3人は中盤付近で先頭集団から脱落。 |
| 川上だけ辛うじて周回遅れは免れたがメダル争いに加われず、31分27秒44の記録で10位に終わり、アトランタに続く五輪連続入賞もならなかった(高橋千恵美は15位、弘山晴美は20位)。 |
| シドニー五輪後は足腰の故障に泣き、出走予定レースの欠場や、ケガをおして出場するも不本意な成績が続いていた。 |
| 2002年3月に山口県で行われた全日本実業団ハーフマラソンでは自己最高記録で優勝、復活の兆しを見せたが、長くは続かなかった。 |
| 同年6月の日本陸上選手権でも不甲斐ない結果となり、同年9月に陸上競技選手としての現役引退を表明。 |
| 当時の川上は27歳、まだ年齢的にもこれからという時の早過ぎる引退劇だった。 |
| 引退会見時、川上のライバルとして頭角を現し始めた渋井陽子や福士加代子らに対して、「どこまでやれるか是非挑戦し続けて欲しい」と笑顔でエールを送っている。 |
| 1975年代の同期生で、陸上競技の長距離走・マラソン選手として活躍した日本女子選手は多い。 |
| 川上と仲が良かった五輪代表の高橋千恵美と大島めぐみ、世界陸上代表の大南博美・敬美双子姉妹・小崎まり・橋本康子のほか、坂下奈穂美、赤木純子らがいた。 |
| その後ゴルフアナリストの加納徹也の指導の下、女子プロゴルファーを目指して特訓中である。 |