| 『待ちぼうけの自画像』p.40(文化出版局、1981年)を参照。 |
| 愛媛県東宇和郡宇和町卯之町(現在の西予市)に生まれる。 |
| 大分県と長崎県で小学校時代を送り、1937年、鎮西学院中等部に首席入学川上宗薫『待ちぼうけの自画像』p.134(文化出版局、1981年)。 |
| 第七高等学校や長崎高等商業学校の入試に失敗し川上宗薫『待ちぼうけの自画像』p.72(文化出版局、1981年)、1943年、西南学院に入学川上は後に「学歴偏重っていうのは、学歴を重んずる風潮のことでしょう。 |
| 日本のこういうところが、やっぱり事件(1973年、中卒の運転手が大卒と詐称して婚約したところ学歴詐称が露見して婚約を破棄され、元婚約者を殺害した事件)には大いに関係があるよね。 |
| オレのことをいえば、旧制高校から九州大学へいったのじゃないんです。 |
| 西南学院という傍系からはいったのです。 |
| これを平気かっていうと平気でもなかったね。 |
| 社会から見たらどうでもよいことなんだけど、本人は意外に気にするものだってことがわかる」『宗薫・愛子の艶笑対談』p.133。 |
| 講談社、1975年と語った。 |
| 1944年秋、長崎県大村の陸軍連隊に入隊。 |
| しかし肋膜炎を意図的に悪化させ、敗戦までの約1年間を入院患者として過ごす。 |
| 1945年8月9日、母と2人の妹を長崎原爆で喪う。 |
| このため父は棄教父川上平三は、のち結成直後の社会党に入り、社会民主青年同盟委員長や原水爆禁止日本国民会議結成準備委員などを歴任した。 |
| 宗薫は退院の手続きが偶然遅れたために被爆を免れた。 |
| 1946年に西南学院商科を卒業。 |
| 1946年、九州大学法文学部哲学科に入学、のち英文科に転科。 |
| 1947年6月に最初の妻と入籍。 |
| 大学に在籍する傍ら、長崎女子商業高等学校で英語を教えて生計を立てるこのころ、米兵の情婦に手を出して授業中に怒鳴り込まれたことがある(佐藤愛子『死ぬための生き方』海竜社、1993年、pp.184-185)。 |
| 1948年3月、長女が誕生。 |
| 1949年12月、大学4年生の時、『西日本新聞』の懸賞論文に『文学作品を読むこととは』を応募し三等に入選、賞金1000円を獲得。 |
| このころ学友会文藝部で小説を書き始める。 |
| 1949年6月、『九大文学』に処女作『綿埃』を発表。 |
| 同じ頃、同誌に川上翠雨の筆名で俳句を発表。 |
| ウィリアム・ブレイクで卒論を書いて1950年に英文科を卒業した後、海星高等学校で教鞭をとるも1学期で退職し、千葉県東葛飾郡柏町(現:柏市)に移住。 |
| 1950年から千葉県立東葛飾高等学校夜間部で英語を教えるこのころ、教え子から接吻を奪って大問題に発展しかけ、その生徒の前で土下座して謝り事態を収拾したこともあったという(佐藤愛子『死ぬための生き方』海竜社、1993年、pp.183-184)。 |
| 傍ら、北原武夫に師事して小説家を志す。 |
| 1952年、同人誌『新表現』『日通文学』に参加。 |
| 1955年、『企み』を『文學界』に、『或る目醒め』を『群像』に発表して商業デビューを果たす。 |
| 1954年から1960年まで芥川賞候補に計5回挙がったが受賞を逸する1954年上半期「その掟」(『新表現』15号、1954年6月)、1954年下半期「初心」(『三田文學』1954年11月号)、1955年上半期「或る目醒め」(『群像』1955年6月号)、1959年下半期「シルエット」(『文學界』1959年7月号)、1960年上半期「憂鬱な獣」(『文學界』1960年1月号)の5回。 |
| この間、1958年、『新潮』6月号に『文学をよそうと思う』を発表しかしこの題名は編集部から提示されたものに過ぎず、当時文学をやめようと思ったことはなかった。 |
| 「なんでもいいから、純文学の雑誌に自分の文章が活字になった処を見たいといった気持」から書いた文章に過ぎなかった(『流行作家』pp.25-26)。 |
| 1959年、友人の水上勉が服の行商のかたわら書き上げた長篇『霧と影』を、河出書房の編集者坂本一亀に紹介する。 |
| だが、その後売れっ子作家となった水上に傲慢な振る舞いがあったことから、1961年、『新潮』6月号に短篇小説『作家の喧嘩』を発表。 |
| 文壇的成功で先を越された自らの心情を戯画化した作品だったが、この作品のモデルにされた水上勉から名誉毀損で訴えられそうになり、菊村到や田畑麦彦に調停を依頼したが失敗。 |
| このため複数の新聞社の文化部記者に「小説に書かれたことを事実と思わないでくれ」と懇願し、『朝日新聞』の匿名コラムで「世の中には変わった作家もいるものだ。 |
| 自作を宣伝するためにこんなことを言って歩いている」「作家にあるまじき卑劣な根性」と批判されたことがある(この匿名コラムの筆者は百目鬼恭三郎だった佐藤愛子『死ぬための生き方』(海竜社、1993年)p.194。 |
| 川上自身も『待ちぼうけの自画像』p.93(文化出版局、1981年)にて「世話になったたくさんの編集者がいるとともに、頭にきた編集者も少数ながら何人かいる。 |
| そして、その数少ない何人かの中の一人は、朝日新聞にいる」と書いている。 |
| 1964年10月、新潮社刊。 |
| 1968年11月、新潮社刊『水上勉選集』第6巻に収録。 |
| この『作家の喧嘩』事件については、川上の親友の佐藤愛子も『終りの時』の題で小説化した。 |
| この間、1960年に東葛飾高等学校を退職していたが、水上勉とのトラブルにより文芸誌からの註文が途絶え、持込原稿すら拒絶されるようになったため佐藤愛子『死ぬための生き方』(海竜社、1993年)p.196、大村彦次郎編集長の誘いで大衆文学の世界に進出。 |
| 『小説現代』1966年6月号に発表した『リボンの過失』で中間小説誌デビューを果たす。 |
| 1968年頃から官能小説の分野に進出吉行淳之介の紹介で『内外タイムス』に連載した小説『色名帖』(1965年)が官能小説第1作だったとも言われる。 |
| 川上宗薫『死にたくない!』(サンケイ出版、1986年)の巻末に収録された菊村到『友・川上宗薫のこと』p.263を参照。 |
| ただし、吉行が『内外タイムス』に対して最初に想定していたのは単なる連載随筆を川上に依頼することであって、官能小説ではなかった。 |
| 官能小説に手を染めた動機について、川上は短篇小説『恥』の中で「私は金の誘惑に負けたのだ」「私は、その当時、エロ小説を軽蔑していた」「そして、そのエロ小説を書くことによって、人々から軽蔑されることもわかった上で、金の誘惑に負けた」と語っている。 |
| 、「失神派」と呼ばれるに至る。 |
| 1969年、水上と川上の共通の友人である佐藤愛子の直木賞受賞を機に水上と和解 |
| 流行作家になってからは妻子と別れ、中野新橋の芸者と所帯を持ち、銀座の複数ホステスと同棲し、最後は30歳下の音大生と結ばれた。 |
| 1979年、食道潰瘍の手術を受ける。 |
| 1984年、リンパ腺癌が発見される。 |
| 東京女子医科大学病院で闘病生活を送った後、1985年10月13日、東京都世田谷区成城の自宅にて死去。 |
| 川上の死後、未亡人は京都に引っ越したため、成城の旧川上邸は、色川武大が一時、間借りした。 |