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つながりの強いひと
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田中角栄
日本の政治家。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。 |
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佐藤栄作
日本の鉄道官僚、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。報道などでは新字体で佐藤栄作(さとうえいさく)と表記される場合も多い。内閣官房長官(第4代)、衆... |
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池田勇人
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議... |
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大野伴睦
大野伴睦(おおのばんぼく、9月20日-5月29日)は日本の政治家。東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民... |
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河野一郎
日本の政治家。自由民主党の実力者。いわゆる党人派の代表格として権勢を誇った。地元神奈川県県政にも強い影響力を持ち、県は「河野王国」とも呼ばれた。従... |
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岸信介
日本の政治家、官僚。内閣総理大臣(第56・57代)。位階は正二位、勲等は大勲位。旧姓佐藤(さとう)。元衆議院議員、CIAエージェント。満州国総務庁次長、商... |
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福田赳夫
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員、農林大臣(第27代)、大蔵大臣(第70・73・74・78代)、外務大臣(第99代)、行政管理庁... |
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田中六助
日本の政治家、元衆議院議員(8期)。正三位勲一等旭日大綬章。 |
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椎名悦三郎
日本の官僚、政治家。岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現・奥州市)出身。田中角栄の首相退陣の折には後継を三木武夫とする選定を下した、俗に言う「椎名... |
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三木武夫
日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員(19期)、逓信大臣(第52代)、運輸大臣(第17・18代)、経済企画庁長官(第6代)、科学技術庁長官(... |
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前田米蔵
日本の政党政治家。和歌山県出身だが、選挙区は中選挙区制時代の旧東京府第6区だった。衆議院議員選挙に通算10回当選し、大政翼賛会総務会長を務めたことで知... |
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藤山愛一郎
藤山愛一郎(ふじやまあいいちろう、1897年5月22日-1985年2月22日)は日本の政治家・実業家。元外務大臣・経済企画庁長官。藤山コンツェルン二代目。 |
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鳩山一郎
日本の政治家。弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階は正二位。勲等は大勲位。1912年(大正元年)に東京市議会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議... |
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赤城宗徳
日本の政治家、教育者、剣道家。元衆議院議員。栄典は正三位勲一等。農林大臣、内閣官房長官、防衛庁長官等を歴任した。永年勤続議員表彰受彰。剣道の称号は... |
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西尾末広
日本の労働運動家・政治家。副総理、官房長官(第2代)、衆議院議員(通算14期)、民社党委員長(初代)などを歴任した。 |
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前尾繁三郎
日本の政治家、官僚。宏池会第二代会長。第58代衆議院議長。 |
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江田三郎
日本の政治家。衆議院議員(5期)、参議院議員(2期)、社会市民連合代表(初代)、日本社会党委員長代行、書記長、副委員長を歴任した。長男は法務大臣・前... |
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吉田茂
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
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正力松太郎
日本の警察官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主、CIAエージェント。従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民。京成電鉄OB。 |
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大平正芳
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(... |
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プロフィール
- 川島正次郎とは
- 概要
- 生い立ち
- 政治家へ
- ナンバー2への道
- 教育者、文化人として
- 千葉県政界の重鎮
- 死後
- 政治語録
- 参考文献
- 関連サイト
川島正次郎(かわしましょうじろう、7月10日-11月9日)は日本の政治家。千葉県東葛飾郡行徳町(現在の市川市)出身(東京府東京市日本橋区生まれ)。旧姓柳原。
概要
| 自民党幹事長・副総裁を歴任。 |
| 専修大学総長、千葉工業大学理事長・会長、成田山奉賛会初代会長を歴任、従二位勲一等旭日桐花大綬章。 |
| ナポレオン時代のフランスの政治家・ジョゼフ・フーシェに例えられ「江戸前フーシェ」や、「寝業師」、「道中師」、「おとぼけの正次郎」と渾名されたりもした。 |
生い立ち
| 東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)に、父・柳原謙次郎、母・コウの三男として生まれた。 |
| 母は正次郎出生後間もなく死去した。 |
| 正次郎は日本橋で鼈甲屋を営む川島才次郎家に養子入籍し川島姓となった。 |
| 小さな時から美少年で知られ、正次郎を養子に欲しいという芝居小屋の主人まで現われたという。 |
| 久松小学校(尋常小学校4年、尋常高等小学校4年)を出たところで中学への進学を希望したが父親から「鼈甲屋を手伝え」と言われ、1年間商売の見習いをした。 |
| 夜間の正則英語学校を経て、専修大学経済科(現在の経済学部)に学んだ。 |
| 大学卒業後、内務省警保局に入省し、後藤新平内務大臣の知遇をえた。 |
| ここは選挙の際に情報を集める部署であり、川島は選挙の分析から次第に選挙そのものに関心を抱くようになった。 |
| 東京日日新聞政治部記者に転じ、東京市長となった後藤新平の引きで、東京市商工課長となった。 |
政治家へ
| 1928年(昭和3年)の総選挙で衆議院議員に初当選し、立憲政友会に属する。 |
| 苦労して学校を卒業した川島には有力なコネもなく、政治の表舞台に出る機会に恵まれなかったが、政友会の先輩の前田米蔵から「政界では欲を出さずに、ナンバー2でいるのが大切だ」とアドバイスされたことを契機に、以後ナンバー2の座を目指すようになる。 |
| 川島は政界入りした当初は森恪と、森の死後は前田と行動をともにし、の政友会分裂に際しては前田とともに革新派(中島知久平総裁)に属した。 |
| には大日本政治会の情報部長を務めた。 |
| 占領下では院内会派の無所属倶楽部に属したがまもなく公職追放。 |
| その間公刊され間もない『原敬日記』(乾元社全9巻)を熟読、党人派としての生き方を模索した。 |
| 追放解除後のに政界復帰。 |
ナンバー2への道
| 鳩山内閣退陣後は岸信介政権の樹立に動き、岸内閣の下で自民党幹事長に就いている。 |
| 川島は安保闘争を前にして動揺する党内の混乱をよく押さえて、とにかく新安保条約の成立まで岸政権を守り抜いた。 |
| 当時川島幹事長は小沢佐重喜を安保特別委員会委員長として強行採決の段取りを進めた。 |
| 1960年(昭和35年)の岸内閣総辞職後、党人派から大野伴睦と石井光次郎が自民党総裁選に名乗りを上げ、官僚派からは池田勇人が名乗りをあげていた。 |
| その頃、川島は岸派内で一定の勢力を有し、川島系といわれる川島に同調する議員10人ほどを連れて、大野支持に向かう様子をにおわせていた。 |
| 川島は大野に対して「党人派が二分されると官僚派の池田に勝てないので、党人派は石井一本にまとめたほうがいい」と進言して、大野に総裁選を辞退させた。 |
| すると、手のひらを返したように川島は「大野を支援しようと思ったが、大野が辞退したので池田を支持する」と表明して池田支持に乗り換え、その功績もあり池田政権末期に、初代自民党副総裁だった大野が亡くなったのに伴い後任に就任した。 |
| 池田が病いで退陣する際には、後継者に佐藤栄作を指名させるのに功績があり、佐藤政権でも自民党副総裁に任命された、佐藤政権の下で川島は終生自民党副総裁の地位を維持し、常に与党ナンバー2の地位を保ち続けた。 |
| また10月岸派が解散すると、岸が派閥を福田赳夫に譲ることに反発し、翌11月川島派「交友クラブ」として分派した。 |
| 池田内閣では東京オリンピック担当大臣としてオリンピック事業整備を進め、新幹線、首都高速などのインフラを構築しながら高度経済成長の仕組みを作り上げ、池田の「所得倍増論」実現を推進したのも、この仕組みを作った川島の功績によるものであった。 |
| 羽田空港に代わる新たな国際空港開設においては地元に近い成田への決定を積極的に推進している。 |
| また、近年機密解除されたアメリカ公文書によるとの<第2回日米関係民間会議>より(『沖縄以後の日米関係』に所収、サイマル出版会、1970年(昭和45年))、「太平洋新時代と日米関係一九七〇年代を迎えて」(『現代日本の外交』の一章、鹿島出版会、1970年(昭和45年))、「七〇年代の展望<安保>もう十年続く」(『毎日新聞』シリーズインタビュー「政権」より、同社で1970年(昭和45年)刊)を残している。 |
| 経済合理性も川島の特徴である。 |
| 川島は「資金集めが大変だから」という理由で加入希望者が続出したにもかかわらず、川島派を20名程度までしか増やさなかった。 |
| 派閥成員17人ぐらいで大臣ポスト1つの割合で閣僚ポストを割り振るのが当時の人事慣行で、20人程度を擁していれば確実に大臣ポストを1つ確保できる上、派内の議員たちに効率よく満遍なく大臣ポストをまわせることを川島は知っていたのである。 |
| 川島は自派の結束を固め、常にキャスティング・ボートを握る位置を確保することで、ナンバー2の座<自民党副総裁>を維持することが出来た。 |
| 1970年(昭和45年)秋、「佐藤栄作は次期首相の座を大蔵官僚出身の福田赳夫に譲ろうとしている」という情報をキャッチすると、川島は「岸・池田・佐藤と官僚出身者による内閣が続き、人心は官僚出身者に飽いている」として福田のライバルだった田中角栄を支持し、田中が勢力を拡大するための時間を稼ぐために、1970年の自民党総裁選では福田への禅譲岸信介は弟の佐藤に4選目への不出馬を促し、福田への禅譲を提言した、福田もそれを期待していた。 |
| 一方で福田は、佐藤政権延長には反対できない立場なのを(川島・田中は)見抜いていた。 |
| を考えていた佐藤を、川島副総裁、田中幹事長という立場で、総裁選に出馬させ佐藤政権の延命を図り、佐藤の機嫌を取りたい中間派を水面下で佐藤出馬支持にとりまとめた。 |
| 結果として佐藤は三木武夫との、一騎打ちに勝ち4選したが、政権末期の約一年間に、求心力が急速に低下し事実上「禅譲」が不可能になった。 |
| (川島は)党人派政治家として田中に総理総裁への道を開いた余話だが評論家大宅壮一の生前最後の記事『サンデー毎日』連載の時事評論の末尾で、10月に佐藤4期目が決定した際の川島の動きを辛口批評した。 |
| 奇しくも川島が没した約2週間後の11月22日に病没している。 |
| 『無思想の思想』(文藝春秋)ほかに所収。 |
| なお門下生の草柳大蔵『実力者の条件』(文藝春秋)にも川島論がある。 |
| 総裁選から9日後の11月9日大田区山王の自宅にて、持病である気管支喘息の発作により急逝した。 |
| 日本武道館にて自民党葬が行われた追悼出版に『川島正次郎』(林政春、花園通信社、2月)がある。 |
教育者、文化人として
| 川島は教育界の発展にも貢献している。 |
| 母校・専修大学の総長となって、専修大学の発展に尽くしたという側面も持っている(専修大学松戸高等学校の創立は地元出身の彼の主導による)。 |
| 千葉工業大学の理事長も勤めた。 |
| 中央学院大学設立に当たっては、設立後学校法人中央学院理事長に就任した甥の平山善司姉・千代の子息。 |
| 後に我孫子市から県議選に出馬した平山秀善は、平山善司の次男である。 |
| の要請により我孫子市の土地のとりまとめを行ったのも川島によるものである。 |
| また日本プロレスリングコミッショナーを始め日本学生卓球連盟会長、日本ボウリング協議会総裁、日本消防協会会長、江戸消防記念会名誉会長、江戸火消防存会会長、畠山みどりの後援会長など教育、スポーツ、文化、芸能の振興にも尽力し各分野の要職を務めた。 |
| プロレス界には今でも「川島が務めていた頃のコミッショナーはお飾りではなかった」と評価する声がある。 |
| 1965年に勲一等旭日大綬章を受章、没した際に従二位に叙し勲一等旭日桐花大綬章を追贈された。 |
千葉県政界の重鎮
| 地元の千葉県では、県議会の長老で戦時中に行動をともにした川口爲之助を担いで初代民選県知事に押したてて追放中ながらもその腹心となった。 |
| 後に参議院議員も務めた川口からその人脈を引き継いで地元の有力議員として千葉県選出の国会議員や地方議員のまとめ役としても辣腕をふるった。 |
| 松本清県議(マツモトキヨシ創業者)の松戸市長擁立を仕掛けたのは川島であると言われている。 |
死後
| 唯一の子供であった正孝(まさたか)を11歳で亡くしているため選挙地盤を親族から継ぐものは無く、直系の県議だった染谷誠が国政転進で受け継ぐことになった。 |
| また派閥は、後藤新平を通じて盟友となった椎名悦三郎が継承した。 |
| 政治的基盤は平山秀善が受け継いだ。 |
政治語録
| 「政界一寸先は闇」。 |
| 負けた後に文句を言っても何の解決策にもなりませんよ」(大野下ろしに成功した直後のコメント)。 |
| 「やはり野に置け蓮華草」。 |
| 「70年代は自共対決の時代になる」。 |
参考文献
| 石川真澄『人物戦後政治』(岩波書店・)ISBN4000233149。 |
| 浅川博忠『自民党・ナンバー2の研究』(講談社文庫・)ISBN4062734990。 |
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1965年
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勲一等旭日大綬章を受章、没した際に従二位に... |
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