| 女を捨てた決意文書と断髪・男装から2年が経った1927年に、芳子は関東軍参謀総長だった斎藤恒の仲人で、旅順のヤマトホテルで蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップと結婚するが、夫の親族となじめず家出し、3年ほどで離婚した。 |
| 少年倶楽部誌上で1926年1月から翌年11月まで連載された「太陽は勝てり」(阿武天風著)は、甘珠爾札布と川島芳子をモデルとした冒険小説であり、現実の結婚と小説がシンクロする展開となった。 |
| 離婚後に上海に渡った芳子は、1930年に上海駐在武官の田中隆吉少佐と出会い交際するようになる。 |
| 田中の回想によると、当時田中が上海で行っていた諜報活動に関わるようになったという。 |
| また、芳子は後に国民党行政院長だった孫科(孫文の長男)とダンスホールで接触し国民党内部の情報を入手し、この件で孫科は失脚したという。 |
| 1931年9月に関東軍の石原莞爾が日本政府の承認を得ないまま張学良軍を独断で攻撃した満洲事変を引き起こし、11月には清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が、関東軍の要請を受けて天津から満洲へ脱出する。 |
| 芳子はこの時、溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことを関東軍から依頼され、婉容を天津から旅順へ護送する任務に携わった。 |
| 田中の回想によれば、同年末に関東軍参謀の板垣征四郎からの依頼を受けて、第一次上海事変のきっかけとなった上海日本人僧侶襲撃事件を田中が立案しており、関東軍から提供された2万円を使って中国人を雇って日本人僧侶を襲わせたが、この際に実行役を集め、報酬と引き換えに襲撃を実行させたのが芳子だった、とされている。 |
| ただし、田中隆吉は戦後東京裁判で連合国側の証人として出廷しており、自己の責任を他者に転嫁するなど、その発言の信憑性には疑問が多い。 |
| 芳子との関係や芳子が諜報活動に携わったというのもどこまでが真実かは不明である。 |
| しつこくつきまとう田中に芳子がうんざりしていたという証言もある。 |
| 上海事変のきっかけに芳子が関わったというのも田中隆吉の回想以外の記録には見られない。 |
| 1932年3月に、関東軍が溥儀を執政として満洲国を樹立させると、川島芳子は新京に置かれた宮廷での女官長に任命されるが、実際に就任することはなかった。 |
| 同年に芳子をモデルにした村松梢風の小説である『男装の麗人』が発表され、芳子は「日本軍に協力する清朝王女」としてマスコミの注目を浴びるようになる。 |
| 1933年2月になり、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(安国軍または定国軍と呼ばれた)が組織され、川島芳子が総司令に就任した。 |
| 昭和8年2月22日付朝日新聞に「男装の麗人川島芳子嬢、熱河自警団の総司令に推さる雄々しくも兵匪討伐の陣頭に」という記事が掲載された。 |
| 川島芳子本人は「婦人公論」の手記の中で「熱河省の隅々を駆け廻つたのですが、僕が動いたより以上の、何十倍かの宣伝が行われてゐるので、全く面はゆい次第です」とのべている。 |
| 『男装の麗人・川島芳子伝』(文春文庫)(1988-05)。 |
| 上坂冬子著/文藝春秋ISBN4-16-729805-8。 |
| 断髪時のエピソードや小説の影響から既に知名度が高かった事もあり、芳子は一躍マスコミの寵児となった。 |
| 250px|thumb|録音スタジオにて。 |
| 当時はラジオ番組に出演し、余った時間に即興で歌を披露すると、それがきっかけでレコードの依頼があり、『十五夜の娘』『蒙古の唄』などのレコードが発売されるなど、非常に人気があった事が知られている。 |
| 『蒙古の唄』にはモンゴル語で歌っている部分があるが、意味が通じないところもある。 |
| これは一時期蒙古人の夫と結婚して草原で暮らしていたので、その時に聞き覚えたものではないかと思われる。 |
| 作詞者としても1933年に『キャラバンの鈴』(作曲:杉山長谷夫、唄:東海林太郎)というレコードを出している。 |
| 同年には、小説「男装の麗人」が連載されていた『婦人公論』誌に「僕は祖國を愛す」と題された独占手記も掲載された。 |
| 私生活においては、伊東ハンニ(「昭和の天一坊」と騒がれた相場師)と交際したと言われている河西善吉『昭和の天一坊伊東ハンニ伝』(論創社、2003年)ISBN4-8460-0335-3 第六章新東洋の夢 p167~p200。 |
| また、水谷八重子など当時の芸能人とも親交をむすんだ。 |