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つながりの強いひと
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山田方谷
幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。 |
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三島中洲
漢学者、東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官、二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者で... |
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川田順
歌人、実業家。住友総本社常務理事。漢学者川田甕江の3男。 |
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佐良直美
日本の歌手・タレント・女優で、現在は主に実業家として活動中。出生名:山口納堡子(やまぐち・なほこ)、現在は芸名と同じ佐良直美に改名。 |
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板倉勝静
江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)。備中松山藩の第7代藩主。板倉家宗家13代。 |
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相良直美
キャッシーと言う大阪出身のタレントが暴露記事を手記として掲載されていました。相良直美は果然黙秘でした。 投稿日時 - 2003-10-26 13:03:11 お礼する 回答... |
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加藤弘之
日本の政治学者、教育家、官僚。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は文学博士(1888年)、法学博士(1905年)。幼名は土代士(とよし)、のち弘蔵(こうぞう)... |
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西村茂樹
西村茂樹(にしむらしげき、1828年4月26日(文政11年3月13日)-1902年(明治35年)8月18日)は日本の啓蒙思想家、文部官僚。東京学士会院会員、文学博士。 |
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薄田泣菫
日本の詩人。本名、淳介(じゅんすけ)。『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と... |
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良寛
良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕-天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵... |
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新島襄
新島襄(にいじまじょう、英字表記:JosephHardyNeesima、天保14年1月14日(1843年2月12日)-1890年(明治23年)1月23日)はキリスト教の布教家。同志社英学... |
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河井継之助
河井継之助(かわいつぐのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日)-慶応4年8月16日(1868年10月1日))は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣であ... |
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重野安繹
重野安繹(しげのやすつぐ、文政10年10月6日(1827年11月24日)-明治43年(1910年)12月6日)は江戸末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に... |
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徳川慶喜
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年‐1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職... |
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板倉勝弼
備中松山藩(高梁藩)の第8代(最後)の藩主、子爵。板倉家宗家14代。第4代藩主板倉勝政の十一男・板倉勝喬の四男。母は石田氏。正室は太田資功の娘。側室に... |
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山田済斎
山田済斎(やまだせいさい、慶応3年11月23日(1867年12月18日)-昭和27年(1952年)11月21日)は日本の漢学者、陽明学者、教育者。二松学舎専門学校の初代校... |
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留岡幸助
日本の社会福祉の先駆者で、感化院(現在の児童自立支援施設のこと)教育の実践家。北海道家庭学校の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダ... |
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頼山陽
頼山陽(らいさんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日)-天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は... |
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原田一道
幕末・明治期の兵学者・日本陸軍軍人。陸軍少将正二位勲一等男爵。 |
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藤森弘庵
藤森弘庵 2010-03-03 Wed 20:19 藤森弘庵
生:寛政11年(1799)3月11日
没:文久2年(1862)10月8日
小野藩士・儒者
従四位
略歴
寛政11年 、小野藩士... |
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プロフィール
- 川田甕江とは
- 山田方谷の門人
- 修史館での対立
- その後
- 参考文献
- 関連項目
川田甕江(かわたおうこう、文政13年6月13日(1830年8月1日)-明治29年(1896年)2月2日)は、幕末・明治期の漢学者。本名は剛(たけし)であるが、これは師である 山田方谷の命名であり、それ以前は竹次郎と名乗っていた。号は毅卿(きけい)。
山田方谷の門人
| 父は同国玉島の回船問屋であったが幼いうちに両親に先立たれて没落し辛い少年時代を過ごす。 |
| 玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだが、玄渓は甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めた。 |
| 江戸では佐藤一斎らの下で学びながら、学資のために蔵書を売り、家庭教師をするなどの苦学の末、近江大溝藩の藩儒として100石が与えられる事となった。 |
| その時備中松山藩の執政であった陽明学者山田方谷が藩儒として50石で召したいという希望を甕江に伝えてきたのである。 |
| 甕江は備中松山が故郷に近い事に加えて、わずか数年で松山藩の財政再建を実現させた山田方谷の学識と手腕をこの目で確かめられる好機であると考えて大溝藩の半分の備中松山藩への仕官を決めたのである。 |
| 安政4年(1857年)28歳の出来事であった(ちなみに甕江の仕官前に彼の評判を聞いた方谷は自分の力量を認めて弟子を江戸に送り出した鎌田玄渓もまた優れた人物であると高く評価して同じく藩の儒臣に招いていた)。 |
| 方谷に学問を学んだ甕江は、すぐに頭角を著して門人としては新参ながら江戸藩邸の教授を任されて三島中洲とともに方谷門人の筆頭として扱われるようになった。 |
| だが、戊辰戦争では藩主板倉勝静が老中の一人として幕府軍に参加したために備中松山藩は「朝敵」とされてしまう。 |
| 甕江は藩兵を密かに備中に引き揚げさせる工作に行っていたが、岡山藩による備中松山占領の方が早く、岡山藩の要求によって藩兵の隊長であった重臣熊田恰が責任を取って切腹させる代わりに他の藩士の罪を免除させるという事になり、甕江が切腹の目付役を務める事になった。 |
| その後、方谷の命に従って江戸で出家させる予定であった板倉勝弼の藩主擁立、蝦夷地まで逃れた勝静の捜索などを行い、高齢の方谷に代わって三島中洲とともに藩の存続に尽力した。 |
修史館での対立
| 藩の存続が決まると、方谷が引退したこともあり甕江は藩を退いて東京(江戸)に上った。 |
| 江戸で塾を開いた甕江は薩摩藩の重野安繹と双璧をなすと言われるようになった(この二人に甕江の盟友・三島中洲を加えて「明治の三大文宗」と称された)。 |
| この頃、江戸漢学界の第一人者であった安井息軒は、訪問した井上毅に「自分に会う暇があるなら川田に会え」と言ったと言われている。 |
| 山田方谷に対して尊敬の念を抱いていた木戸孝允は、甕江に方谷の出仕を要請するように依頼した。 |
| 方谷の引退の意思は固く、木戸の期待には応えられなかったものの、太政官に出仕して大学小博士として重野安繹とともに国史編纂の責任者になれるように推挙したのである。 |
| やがて国史編纂構想は太政官内における修史館設置(明治10年(1877年)1月)へと発展する。 |
| だが、甕江と重野の対立はその最初から生じていた。 |
| 新しい日本の国史を作ろうと意気込む重野に対して甕江は国史編纂よりも史料の収集に力を注ぐべきだと考えていた。 |
| 更に完璧なものを追求して妥協を許さない重野と気さくで大らか(悪く言えば大雑把)な甕江では性格が全く合わなかったのである。 |
| そのような時に生じたのが『太平記』の扱いを巡る問題であった。 |
| 重野は『太平記』を創作であって史実ではないと考え、同書にしか記述の無い児島高徳や「桜井の別れ」(楠木正成が死の直前に息子正行との訣別を行う場面)は国史に載せるべきではないと唱えたのに対して、甕江は『太平記』に対する史料批判を行わずに初めから創作と決め付けるべきではないと反対して、両者は激しく論戦を行い、学者達を2分するかの勢いとなった。 |
| その結果、明治14年(1881年)、甕江は修史館を去って宮内省に移る事になった。 |
| この論争について今日の史学史では論争中に甕江が発したとされる「事実の詮索過ぎて忠君孝子地下に涙し…」という発言が一人歩きして、甕江が歴史学を「名教道徳」に従属させて国家に不都合な歴史の存在を否定しようとしたという評価がされている永原慶二『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館、2003年)ISBN978-4-642-07797-2。 |
| だが、甕江自身の経歴から見れば甕江もまた重野同様に実証主義を取り、それゆえに独善的に陥りがちであった重野の手法を批判してより慎重な史料批判を求めたのが論争の実態である。 |
| むしろ、その後の国学者や神道関係者、国粋主義者によって甕江の発言を都合よく利用して重野や久米邦武の追い落としを図った事や、激しい論争のために多くの人間を巻き込んだ派閥論争へと変質してしまい、互いに妥協の出来ないところまで行き着いてしまった事が、日本の歴史学・史学史にとっては大きな不幸であったといえよう。 |
その後
| その後、明治17年(1884年)に東京帝国大学教授となると、華族女学院校長・帝室博物館理事・貴族院議員(勅選)を歴任して、明治26年(1893年)には東宮(後の大正天皇)の侍講に任じられた。 |
| その一方で、旧主であった板倉勝静を度々訪れてはその相談相手となり、死の間際には「死後も自分の側近でいて欲しい」と勝静から懇願されて、勝静の墓の隣に甕江の墓が設置される事となった。 |
| かつて甕江を取り立てた木戸孝允の死後、甕江は勅命によって木戸の墓碑銘を起草するように命じられた。 |
| ところが、甕江の性分と仕事の多忙さからかその筆は進まずに明治29年(1896年)に甕江が死去したときには未だ完成をみていなかった(それを知った盟友・三島中洲が慌てて未完の部分を継ぎ足して完成させたといわれている)。 |
| 政府では甕江が東宮侍講を務めた事から贈位や授爵を検討していた。 |
| ところが、木戸の後継者を自負する山縣有朋が甕江が未だに勅命である筈の木戸の墓碑銘作成を終えていない事や逆に老中として新政府軍と戦った板倉勝静の隣に墓が築かれている事を知って激怒し、甕江は朝敵・備中松山藩の重臣であって贈位・授爵に値しないと強硬に唱えたためにその事は取りやめとなったのである。 |
| 歌人で住友財閥の要職を務めた川田順は3男にあたる。 |
| また玄孫(孫の孫)には元歌手の佐良直美がいる。 |
参考文献
| 矢吹邦彦『ケインズに先駆けた日本人山田方谷外伝』(明徳出版社、1998年)ISBN978-4-89619-141-7。 |
関連項目
| 明治政府の修史事業。 |
| 新島襄-備中松山藩主と同族の安中藩出身であった縁で、江戸の松山藩邸にいた甕江に漢学を学び、後に甕江の勧めで松山藩所有の蒸気船の航海演習に参加している。 |
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1830年
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川田 甕江(かわた おうこう、文政13年6月13... |
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1881年
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甕江は修史館を去って宮内省に移る事になった |
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