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三浦梅園
日本の江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。豊後国(大分県国東市安岐町富清)の出身。諱は晋(すすむ)。条理学と言われる独自の学問体系を築いた『... |
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広瀬淡窓
江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号... |
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脇蘭室
江戸時代末期に活躍した豊後国速見郡小浦村(現在の大分県速見郡日出町豊岡)出身の儒学者。名は長之、字は子善、通称は儀一郎。蘭室、菊園、愚山と号した。 |
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佐久間象山
日本の武士(松代藩士)、兵学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい... |
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平賀源内
平賀源内(ひらがげんない、享保13年(1728年)-安永8年12月18日(1780年1月24日))は江戸時代の日本の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家... |
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家老
父
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。 |
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山片蟠桃
江戸時代中期の商人であり学者。名前は、升屋の番頭をしていたことからもじったもので、本名は長谷川芳秀、通称升屋小右衛門。 |
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山田方谷
幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。 |
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海保青陵
江戸時代後期の儒学者・経世家。名は皐鶴、字は万和、通称儀平。青陵は号である。 |
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南方熊楠
日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。菌類学者としては粘菌の研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡... |
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皆川淇園
江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)がいる。淇園は号で、名は愿(げん)。字は伯恭。通称は文蔵。... |
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毛利空桑
江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した豊後国大分郡高田郷(現在の大分県大分市鶴崎)出身の儒学者、教育家、尊皇論者。名は倹、字は慎甫、通称は到。 |
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田能村竹田
江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。幼名は磯吉、後に玄乗、生蔵。名は孝憲。字は君... |
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亀井南冥
江戸時代の儒学者で、医者、教育者。筑前国姪浜(現在の福岡市)に生れる。諱は魯、字は道載、通称は主水、南冥はその号である。亀門学の祖。 |
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木下俊敦
豊後日出藩の第13代藩主。第11代藩主・木下俊懋の四男。母は側室の歌と言われている。正室は朽木倫綱の娘。継室は酒井忠進の娘。子に木下俊方(次男、14代藩... |
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佐藤信淵
江戸時代後期の絶対主義的思想家であり、経世家(経済学者)、農学者、兵学者、農政家でもある。出羽国雄勝郡郡山村(現秋田県雄勝郡羽後町)出身。通称は百... |
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志筑忠雄
江戸時代長崎の蘭学者、阿蘭陀稽古通詞(のち辞職)。 |
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前野良沢
豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。『解体新書』の主幹翻訳者の一人。良沢は通称で、名は熹(よみす)、字は子悦、号は楽山、のちに蘭化。 |
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伊能忠敬
江戸時代の商人・測量家である。1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国の歴... |
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プロフィール
- 帆足万里とは
- 略伝
- 学問
- その他の著作
- 参考文献
- 関連サイト
帆足万里(ほあしばんり、安永7年1月15日(1778年2月11日)-嘉永5年6月14日(1852年7月30日))は、江戸時代後期の儒学者・経世家。父は豊後国日出藩家老の帆足通文。字は鵬卿。号は愚亭など。 三浦梅園、 広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人と言われる。なお、近隣の豊前国中津藩にも聘されて数多くの門人を抱え、野本白巌・福澤百助( 福澤諭吉の父)・村上玄水など数多くの門人を抱えた。
略伝
| 1791年(寛政3年)万里が14歳の時、脇愚山に学び、21歳の時に大阪の中井竹山・京都の皆川淇園にも学ぶ。 |
| その後30歳前後には一人前の学者となり、日出藩の藩校の教授となり、1832年(天保3年)日出藩家老となり財政改革に行った。 |
| 藩主の懇望を受けたが辞して承諾せず、「一度任せたからには、後から口出しをしない」という約束の下に、これまでの家老をやめさせ自分が有能・公正を見こんだ人々を役職につけ、倹約を旨とし、自ら算盤をとり藩の帳簿を調べ、これまでの役人の不正を明るみに出した。 |
| 改革の3年後には、大いに成績をあげ、藩が大坂商人に借りていた金を返していく方針が立った。 |
| 致仕した後、私塾西崦精舎(せいえんせいしゃ)を開いて子弟の教育にあたっている。 |
| 1847年に万里はにわかに門人を引き連れて京都にあがり、翌年まで滞在していたことがある。 |
| これは京都に学校を興してそれにより朝廷の威光を増そうという計画だったともいう。 |
| 体は弱い方だったが、人一倍衛生を重んじ、食物に気をつけて養生したので長命を得たという。 |
学問
| 万里は経学・史学・経世の学に専心したといわれるが、一方で、自然哲学者・三浦梅園の影響により窮理学に関心を持ち、40歳頃から藤林普山の『訳鍵』を手に入れてオランダ語を修得し、ヨーロッパの自然科学を学んだ。 |
| その蘭学の範囲は、天文・物理・博物学・医学・地理などにわたる。 |
| 皇室を尊びながら偏狭ではなく、門下に西洋について学ぶものが多く出た。 |
| 万里の著書『窮理通(きゅうりつう)』は日本における自然科学史に画期的な文献である。 |
| 明治年間にオランダのフルベッキが『窮理通』の説を聞き、江戸時代の科学の進んでいたことに驚いたという。 |
| 「万里の本領は文章にある」とする見方は生前からあった。 |
| 彼は「古文」を唱道して後進に教え、その古文は荻生徂徠と異なり、文字ではなく文体を古体に則る。 |
| つまり、秦漢以前の文を模範とし、唐宋以下の文を骨力がなく軟弱であるとして軽んじた。 |
| たとえばその著書『井櫻纂聞』などは、「剄簡にして動かすべからざるの力あり」と評される。 |
その他の著作
| 『東潜夫論(とうせんぷろん)』。 |
| 『四書標註』。 |
| 『入学新論』。 |
| 『五経標註』。 |
| 『西崦遺稿』。 |
参考文献
| 吉田忠 「帆足万里 ─ 漢蘭折衷を説く儒家」、『九州の蘭学─越境と交流』、128-132頁。 |
| ヴォルフガング・ミヒェル、鳥井裕美子、川嶌眞人共編、(京都:思文閣出版、2009年)。 |
| ISBN978-4-7842-1410-5。 |
| 帆足図南次 『帆足万里』 吉川弘文館〈人物叢書〉。 |
| 森銑三 『おらんだ正月』 冨山房、岩波文庫ほか。 |
| 矢野龍渓 『西遊漫記』 長島書房、明治24年。 |
| 西村天囚 『学界の偉人』。 |
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1847年
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万里はにわかに門人を引き連れて京都にあがり... |
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