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平清盛
平安時代末期の武将・公卿・政治家である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終... |
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平経盛
平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の三男。平清盛の異母弟。平敦盛らの父。 |
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平忠盛
親
平安時代末期の武将。平清盛の父。父は平正盛。烏帽子親は義兄の源義忠。伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力... |
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平教経
平安時代末期の平家一門の武将。平教盛の次男。『平家物語』では、数々の合戦において武勲を上げ、「たびたびの合戦で一度の不覚も取ったことはない」「王城... |
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平頼盛
平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。 |
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安徳天皇
第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日)-寿永4年3月24日(1185年4月25日))。諱は言仁(ときひと)。 |
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平通盛
平安時代末期の平家一門の武将。平教盛の嫡男。平教経らの兄。妻は小宰相。越前三位と呼ばれた。本名は公盛。 |
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平知盛
平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は平時子。同母兄弟に平宗盛、平重衡、建礼門院がいる。官位は従二位行権中納言。世に新中納言と称された。 |
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平宗盛
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は... |
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平重盛
平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。保元・平治の乱で若き武将として父清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身とともに累進し、最終的には左近衛大... |
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藤原家隆
母
●藤原家隆塚
藤原定家とともに「新古今和歌集」を編纂した藤原家隆の庵(夕日庵:せきようあん)があったとされています。 ●口縄... |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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平時忠
平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)... |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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平忠度
平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。平清盛の異母弟。 |
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忠快
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。法印、権大僧都。中納言律師と呼ばれる。字は「仲快」とも。平清盛の弟・門脇中納言教盛を父として生ま... |
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平重衡
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称された。平氏の大将の一人として各... |
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平資盛
平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」... |
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平家盛
平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の次男。母は正室の宗子(池禅尼)。平清盛の異母弟。同母弟に平頼盛がいる。 |
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平業盛
平安時代末期の平家一門の武将。平教盛の三男。兄弟に通盛、教経、忠快らがある。官位は従五位下蔵人。父の教盛は平清盛の弟であり、業盛も平氏政権の全盛の... |
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プロフィール
平教盛(たいらののりもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。 平忠盛の四男。 平清盛の異母弟。母は 藤原家隆の娘( 待賢門院に仕えた女房)。 平通盛、 平教経の父。保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。邸宅が六波羅の総門にあったことから門脇殿と通称され、さらに平氏政権での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。鹿ケ谷の陰謀事件では娘婿の 藤原成経が罪に問われたため、その赦免に奔走した。治承・寿永の乱では主に後方の守りについた。一ノ谷の戦いで嫡 ...
生涯
| 保元元年(1156年)の保元の乱では兄清盛に従って戦っている。 |
| 功により院の昇殿を許された。 |
| 平治元年(1159年)の平治の乱では清盛が後白河法皇と二条天皇を内裏から奪回して、内裏に籠る源義朝・藤原信頼を攻撃する際に、清盛の嫡男の重盛、弟の頼盛とともに大将として六波羅を出撃。 |
| 重盛が侍賢門、頼盛が郁方門を攻撃し、敗走したとみせかけて源氏を内裏からおびき出し、その間に内応者に陽明門を開けさせて内裏を占領する働きをした。 |
| 退路を失った義朝は六波羅へ総攻撃をしかけるが、力尽きて敗走。 |
| 乱は清盛の勝利に終わった。 |
| 兄清盛が後白河と距離を置いたのと対照的に、母が仕えた待賢門院所生という縁から後白河に接近し院近臣として活動した。 |
| ただし正室腹の異母弟・頼盛(池殿)に比べると、清盛に従順であったという「(清盛は)兄弟多クオハシケル中ニ、コトニ此人ヲバ糸惜(いとほしく)オボシテ、一日モ見ネバ恋クオボツカナケレバトテ、六波羅ノ惣門ノ脇ニ家ヲ造テ据置給ヒタレバ、異名ニ門脇宰相ト申ケル也」(『源平盛衰記』巻六「丹波少将被召捕」)。 |
| 乱後、正四位下・常陸介に叙任されていたが、応保元年(1161年)9月15日、二条天皇を廃して憲仁親王(後の高倉天皇)擁立を図ったとの容疑のため解官される。 |
| これは後白河上皇と二条天皇との対立の巻き添えを受けたもので、院に近い平時忠(清盛の義弟)や藤原成親も同時に解官されている。 |
| なお、翌年には能登守に復職している。 |
| 仁安3年(1168年)に正三位参議に進み、門脇宰相と呼ばれた。 |
| 安元3年(1177年)4月、延暦寺大衆が院御所へ強訴に押し寄せた際、警固のために出動。 |
| 同年6月、鹿ケ谷の陰謀事件が発覚。 |
| 首謀者は院近臣の藤原成親・西光・俊寛らで、このうちの成親の嫡男の成経は教盛の娘婿だった。 |
| 娘は身重でもあり、困り果てた教盛は成経とともに清盛の元へ参り、寛大な処置を願ったが、清盛は対面すら許さず成経の断罪を命じた。 |
| これに対して、教盛は出家して隠遁するとまで言いだし、それならばとようやく成経の身柄を教盛に預けることを許した。 |
| 関係者の処罰が決まり、成経は備中国次いで遠く薩摩国鬼界ヶ島へ流されることになった。 |
| 娘婿のこと哀れに思う教盛は懐妊した中宮徳子の安産祈願として大赦を願い出て、清盛もこれを許し、翌治承2年(1178年)に成経は赦免されて京へ帰った。 |
| 治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵計画が露顕。 |
| 園城寺に逃げ込んだ以仁王追討の大将の一人に任じられる(以仁王の挙兵)。 |
| 治承5年(1181年)閏2月、兄の清盛が死去。 |
| 平家は衰運に向かうことになる。 |
| 養和元年(1181年)10月、北陸道の情勢が不穏になると、教盛は兄弟の頼盛、経盛とともに洛中の守りを担当した。 |
| 嫡男の通盛は越前守で北国の守りを担当しており、源義仲の軍と合戦を繰り返していた。 |
| 養和2年(1182年)、従二位・権中納言に進み、門脇中納言と呼ばれるようになった。 |
一門都落ち
| 寿永2年(1183年)4月から5月にかけて、維盛を総大将とする北陸遠征軍が源義仲に敗れて壊滅。 |
| 嫡男の通盛も敗走して京へ逃げ帰った。 |
| 同年7月、平家は京を支えきれなくなり、ついに都落ちする。 |
| 平家は讃岐国屋島に本営を置き、教盛・通盛・教経の父子は同年閏10月の水島の戦いに参戦し勝利する。 |
| さらに、同年11月の室山の戦いでは重衡とともに大将軍として出陣し源行家を破っている。 |
| 翌寿永3年(1184年)正月、義仲は鎌倉から派遣された範頼・義経に滅ぼされた。 |
| 平家は摂津国福原まで進出し、教盛父子は西国の反乱勢力の鎮圧にあたり、特に次男の教経は華々しく戦った。 |
| 寿永3年(1184年)2月4日、福原で清盛の法要が営まれ、除目が行われ(平家は安徳天皇と三種の神器を擁しているので除目を行う権利がある)、教盛は正二位大納言に叙されるが、これを辞退した。 |
| その日、範頼・義経の鎌倉軍が京を進発していた。 |
| 7日に行われた福原を巡る一ノ谷の戦いで平家は惨敗し、嫡男の通盛をはじめ、子の教経、業盛がみな討ち死にした(教経については生存説あり)。 |
| さらに、身重だった通盛の妻の小宰相も夫の後を追って入水自殺してしまう。 |
| 子たちを失った教盛の身辺は心細いものになった。 |
| その後、平家は屋島の戦いに敗れ、長門国彦島に逃れた。 |
| そして寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いが行われ、平家は力尽きて敗北。 |
| 二位尼(清盛の妻)と安徳天皇をはじめ、平家の一門は次々と入水した。 |
| 教盛は兄の経盛とともに鎧の上に碇をつなげて兄弟手を取りあって海に沈んだ。 |
| 娘の教子の子である重子は後鳥羽天皇の寵妃となり、守成親王(のちの順徳天皇)を産んでいる。 |
官歴
| 久安4年(1148年)(21歳)。 |
| 正月28日:左近衛将監。 |
| 鳥羽院判官代。 |
| 2月5日:蔵人。 |
| 4月26日:従五位下。 |
| 仁平元年(1151年)(24歳)。 |
| 2月2日:淡路守。 |
| 仁平3年(1153年)(26歳)。 |
| 正月5日:従五位上(崇徳上皇御給)。 |
| 保元2年(1157年)(30歳)。 |
| 10月22日:正五位下(陰明門の造営)。 |
| 保元3年(1158年)(31歳)。 |
| 4月2日:左馬権頭兼任。 |
| 12月29日:大和守。 |
| 左馬権頭如元。 |
| 保元4年のち改元して平治元年(1159年)(32歳)。 |
| 正月3日:従四位下。 |
| 12月27日:越中守(平治の乱の勲功)。 |
| 左馬権頭如元。 |
| 平治2年のち改元して永暦元年(1160年)(33歳)。 |
| 正月21日:常陸介。 |
| 6月3日:従四位上(兄・清盛が、肥前国住人・通能を追討)。 |
| 10月11日:正四位下。 |
| 永暦2年のち改元して応保元年(1161年)(34歳)。 |
| 9月15日:解官。 |
| 応保2年(1162年)(35歳)。 |
| 長寛2年(1164年)(37歳)。 |
| 2月8日:内蔵頭兼任。 |
| 長寛3年のち改元して永万元年(1165年)(38歳)。 |
| 12月2日:能登守を辞任。 |
| 永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(39歳)。 |
| 10月10日:春宮亮兼任。 |
| 仁安3年(1168年)(41歳)。 |
| 2月19日:春宮亮を辞任(高倉天皇の践祚)。 |
| 8月10日:参議に補任。 |
| 8月12日:正三位。 |
| 仁安4年のち改元して嘉応元年(1169年)(42歳)。 |
| 正月11日:丹波権守兼任。 |
| 承安4年(1174年)(47歳)。 |
| 正月21日:丹波権守重任。 |
| 治承2年(1178年)(51歳)。 |
| 治承5年のち改元して養和元年(1181年)(54歳)。 |
| 12月4日:権中納言。 |
| 養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(55歳)。 |
| 3月8日:従二位。 |
| 寿永2年(1183年)(56歳)。 |
| 4月5日:中納言。 |
| 8月6日:解官。 |
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1161年
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二条天皇を廃して憲仁親王(後の高倉天皇)擁... |
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1168年
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正三位参議に進み、門脇宰相と呼ばれた |
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