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平清盛
平安時代末期の武将・公卿・政治家である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終... |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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平時信
父
平安時代末期の公家。桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族。兵部大輔・平知信の子。高倉天皇の外祖父。官位は検非違使・兵部権大輔・正五位下、贈左大臣・正一位。 |
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平時子
平安時代末期の女性。平清盛の正室(継室)。位階は従二位。二位尼(にいのあま)と称される。中級貴族の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(... |
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高倉天皇
平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年3月30日)-治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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安徳天皇
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後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日)-建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日)-保元3年8月1... |
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玉葉
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。 |
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平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。桓武平氏高棟王流、権大納言・平時忠の長男。室の吉田経房女との間に時秀と一女がある。官位は従三位・左中将... |
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平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は... |
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平時家
平安時代末期・鎌倉時代初期の武将・貴族。桓武平氏高棟王流、権大納言・平時忠の次男。平家滅亡後に信時(のぶとき)と改名。官位は従四位下・右中将。平家... |
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平安時代末期の女性。平家一門の平時忠の娘。本名は不明。『尊卑分脈』で源義経の妾とされる。能登国(現石川県能登半島)の伝承で蕨姫と呼ばれる。寿永4年(... |
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後白河天皇の譲位後の妃。高倉天皇の生母。女御、皇太后、女院。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納... |
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山﨑努(やまざきつとむ、男性、-)は日本の俳優。千葉県東葛飾郡松戸町(現:松戸市)出身。東京都立上野高等学校卒業。妻の黛ひかるは宝塚歌劇団卒業生で千... |
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二条天皇
二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日)-永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日)-永... |
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大橋吾郎
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平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平家打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、高倉宮... |
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藤原領子
平安時代末期の女性。建春門院民部卿局(けんしゅんもんいんみんぶきょうのつぼね)、洞院局(とうのいんのつぼね)の名を有する女房(高級女官)。大納言藤... |
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プロフィール
- 平時忠とは
- 生い立ち
- 憲仁親王擁立と配流
- 召還、公卿昇進
- 嘉応の強訴と再度の失脚
- 建春門院の側近
- 政権の動揺
- 安徳の誕生と高倉院政
- 福原行幸と反乱の激化
- 一門都落ち
平時忠(たいらのときただ)は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・ 平時信。母は二条大宮( 令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。 平清盛の継室である 平時子の同母弟。 後白河法皇の寵妃で 高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。
生い立ち
| 時忠の母については『吉記』に、二条大宮(令子内親王)に仕えた半物であったことが記されている『吉記』治承5年(1181年)5月28日条。 |
| この女性は時信との間に、時忠・時子・藤原親隆の室を産んだ。 |
| やがて時信との関係は疎遠となり、右少弁・藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産む。 |
| 顕憲の死後、時忠と時子は母を引き取って孝養を尽くしたという。 |
| 時忠と時子の年齢については、『兵範記』の清盛出家の記事の中に「相国今年五十一、二品四十三云々」『兵範記』仁安3年(1168年)2月11日条とあることから、時子は大治元年(1126年)生まれとなる。 |
| 記主の平信範は時子の叔父なので信憑性は高い。 |
| 時忠は『公卿補任』記載の年齢から逆算すれば、大治5年(1130年)生まれである。 |
| しかし『吾妻鏡』には、時忠の薨去を聞いた源頼朝が周囲の者に年齢を尋ねたところ、62歳という返事があったと記されている『吾妻鏡』文治5年(1189年)3月5日条。 |
| これによれば、時忠は大治3年(1128年)生まれとなる。 |
| 時忠の生年は確定できないが、いずれにしても時子が年長である。 |
| 『保暦間記』にも「平大納言時忠ト申ハ、太政入道ノ北方二位殿ノ弟也」とある。 |
| 久安2年(1146年)3月、17歳で非蔵人、翌年正月に六位蔵人となる。 |
| 久安4年(1148年)から翌年にかけて検非違使・左衛門少尉となる。 |
| 久安5年(1149年)4月に叙爵して、蔵人・検非違使の任を離れた。 |
| (非蔵人から六位蔵人となる階層の人物はその階層で生涯を終えるのが通例だった。 |
| 父の時信が五位止まりで、母の身分も低いことから、時忠も本来ならそれ以上の昇進は望めなかった。 |
| )仁平4年(1154年)8月8日の鳥羽法皇による新御堂法会・仏像安置の儀式に、時忠は清盛と共に院司として列席している『兵範記』。 |
憲仁親王擁立と配流
| 平治の乱が終わり清盛の発言力が著しく高まった永暦元年(1160年)4月、時忠は検非違使・右衛門権佐に抜擢された。 |
| 翌年正月には清盛が検非違使別当に就任して京都の治安維持の責任者となり、時忠は清盛の下で現場の指揮に当たった。 |
| さらに10月には右少弁も兼任する。 |
| 高棟流平氏は実務官人の家系だったが、太政官の事務を処理する弁官を輩出していたのは別系統の時範の子孫であり、時忠の系統は主に院や摂関家の家司として活動していた。 |
| この頃から時忠は清盛の思惑から外れ、独自の動きを見せるようになる。 |
| 平治の乱の後、政治の主導権を巡って後白河上皇と二条天皇が激しく対立する中で、応保元年(1161年)9月3日、妹の滋子が後白河の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産した。 |
| その直後の15日、時忠は清盛の弟・教盛とともに二条天皇により解官された。 |
| 『愚管抄』によれば「ユユシキ過言」をしたのが原因であったという。 |
| その内容は定かでない。 |
| 翌年6月、院近臣・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛したとして解官されるが、時忠も陰謀に関わったとして23日に出雲国に配流された。 |
| 教盛が短期間で赦免されたのに対してはるかに重い処罰であり、二条天皇親政派が時忠を強く警戒していたことがうかがわれる。 |
| この事件において清盛は二条天皇支持の立場をとり、時忠に手を差し伸べることはなかった。 |
召還、公卿昇進
| 永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、時忠は召還される(9月14日)。 |
| 翌仁安元年(1166年)3月に本位に復すと、4月に左少弁、6月には右中弁・検非違使佐・左衛門権佐・五位蔵人を兼任し三事兼帯となった。 |
| 10月10日には、5年前に果たせなかった憲仁親王の立太子が実現する。 |
| 翌月、清盛が内大臣となり、時忠も蔵人頭に補された。 |
| 清盛の大臣就任に不満を抱き、五節の節会に欠席した藤原朝方・実家が解官されたことによる後任人事だったが、非蔵人から累進して蔵人頭にまでなったのは極めて異例のことだった。 |
| 位階も正五位下から従四位下に昇叙され、翌仁安2年(1167年)正月に正四位下・右大弁、2月11日には参議・右兵衛督となり、召還されてわずか2年余りで公卿への昇進を果たした。 |
| 仁安3年(1168年)2月に憲仁親王が践祚(高倉天皇)、3月には妹・滋子が皇太后となる。 |
| 滋子の叔父・信範は教盛とともに蔵人頭となり、時忠は従三位に叙せられた。 |
| 清盛が出家して政界を表向き引退したこともあって、高倉即位後の政治は後白河が主導権を握った。 |
| 時忠も滋子の兄という立場から、後白河の側近として活動することになる。 |
| 7月3日、右衛門督・検非違使別当に就任するが、尉・佐を歴任して別当になったのは時忠が初めてだった。 |
| 8月には権中納言となる。 |
| 同月、清盛の致仕により空席となっていた太政大臣に花山院忠雅が任じられ、時忠は慶賀の儀式に出席している。 |
| 12月、伊勢神宮の正殿が焼失すると、翌嘉応元年(1169年)正月、復興のための公卿勅使として伊勢に派遣された。 |
| 4月に滋子が建春門院の院号を宣下されたことにより、女院別当に補される。 |
| 11月に新帝の八十嶋祭が盛大に執り行われ、時忠も公卿として行列に加わった。 |
| 後白河院政は平氏一門の協力で磐石なものとなり、政情も安定するかに見えた。 |
嘉応の強訴と再度の失脚
| ところが12月に突如として延暦寺が院近臣・藤原成親を流罪に処すよう要求して強訴を起こした(嘉応の強訴)。 |
| 成親の知行国である尾張国の目代・政友が延暦寺領美濃国平野荘の神人に乱暴を働いたことが発端だった。 |
| 後白河は同じ天台宗でも園城寺を優遇し、延暦寺に対しては院近臣を国司に任じて、荘園の停廃・神人の取り締まりなどの強圧的な政策を行っていたため、院と延暦寺の対立は前々から一触即発の状態にあった。 |
| 22日、延暦寺の大衆が強訴のため下山、23日には上洛の態勢に入ったとの報を受けた後白河法皇は、院御所に公卿を召集して対応を協議するとともに、検非違使・武士に動員令を下した。 |
| 時忠も検非違使別当として院御所・洛中の警備に当たった。 |
| しかし大衆は院御所ではなく、警備の手薄な内裏に乱入して気勢を上げた。 |
| この事態に時忠は、要求を聞き入れるならすぐに受諾し、聞き入れないなら武士を派遣して大衆を追い払うべきだと、早急な対策をとることを進言する。 |
| 公卿議定では神輿が破壊される危険性から派兵に消極的な意見が大勢を占め、官兵を率いる重盛も夜間の出動に難色を示したため、翌日の議定で成親配流・政友拘禁が決定した。 |
| しかし、わずか4日後の28日に成親が召還され、時忠・信範は「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」『百錬抄』という理由で解官され、時忠は出雲国に、信範は備後国にそれぞれ配流されることになった。 |
| 同時に時実・時家(時忠の子)や信基(信範の子)も解官となり、結果として堂上平氏が詰め腹を切らされる形になった。 |
| 院と延暦寺の抗争が再燃したことで、翌年正月17日に政情不安を危惧した清盛が上洛、武士が六波羅に集結して緊迫した情勢となった。 |
| 後白河法皇は清盛の圧力により、2月6日、やむを得ず成親の解官と時忠・信範の召還を決定した。 |
| この事件では、延暦寺への対応を巡って後白河院政と平氏の間に足並みの乱れが生じ、政権が必ずしも一枚岩でないことが露呈することになった。 |
| 成親が4月に早くも権中納言・右兵衛督・検非違使別当に還任したのに対して、時忠が本位に復したのは12月になってからだった。 |
建春門院の側近
| 承安元年(1171年)正月、高倉天皇の元服の儀式が執り行われた。 |
| 後白河法皇と清盛の間に生じた不協和音が解消されたわけではなかったが、政権維持のためには両者の協力が不可欠であり、調整役として建春門院の政治的地位が上昇した。 |
| 時忠は一回目の失脚では清盛に、二回目の失脚では後白河法皇に切り捨てられた苦い経験から、双方に不信感を抱いて距離を置くようになったらしく、政界復帰後は建春門院側近としての活動が顕著となる。 |
| 娘の一人は建春門院女房となり内侍と称していた(『吾妻鏡』建久2年(1191年)5月12日条)に見える典侍・平宣子と同一人物の可能性が高い)。 |
| 子の時実は建春門院の御給により従五位上に叙せられ、時忠は4月21日に権中納言に還任、5月1日には帯剣を許された。 |
| 前年、宗盛・源資賢が権中納言となったことで中納言9人の例が開かれたばかりだったが、早くも10人の例が始まり九条兼実は「未曾有」のことだと非難している『玉葉』。 |
| 翌承安2年(1172年)2月に徳子は中宮となり、時忠は権大夫に就任した。 |
| 承安3年(1173年)10月、時忠が責任者となって造営していた建春門院の御願寺・最勝光院が完成、承安4年(1174年)正月には、建春門院の御給で従二位に叙せられた。 |
| 安元元年(1175年)11月12日には右衛門督となり検非違使別当に返り咲いた。 |
政権の動揺
| 安元2年(1176年)3月、後白河法皇の50歳を賀す式典が法住寺殿で盛大に催され、時忠も他の公卿や平氏一門とともに出席する。 |
| 10月23日、守覚法親王の弟子となっていた後白河法皇の第九皇子(後の道法法親王)が藤原隆房に抱えられて参内、11月2日には親宗が養っていた第十皇子(後の承仁法親王)も時忠が引き連れて参内し、いずれも高倉天皇の猶子となった。 |
| これらの皇子は、高倉天皇に皇子が生まれない場合の控えとして養育されていたと推測される。 |
| 後白河法皇は、成人した高倉天皇が政務を行うようになると自らの発言力が著しく制限されることから、早期の譲位を望んでいた。 |
| 当時、院政を行うことができたのは天皇の直系尊属に限定されていたので、時忠らが連れてきた皇子が高倉天皇の猶子となったのは高倉天皇の発言力保持のために必要な措置であり、後白河法皇と清盛の対立を防ぐための妥協策でもあった。 |
| しかし、これは問題の先延ばしに過ぎず、高倉天皇を擁す平氏と後白河法皇の下に結集する院近臣の対立は避けられないものとなっていった。 |
| 安元3年(1177年)4月、延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。 |
| その後、後白河法皇は天台座主・明雲の処罰を強行し、院と延暦寺の抗争が再燃する中で鹿ケ谷の陰謀が勃発する。 |
安徳の誕生と高倉院政
| 7月24日に藤原隆季が娘の死により中宮大夫を辞任したことで、26日に大夫に昇格する。 |
| 11月12日、徳子は皇子(言仁親王、後の安徳天皇)を出産し、時忠の妻・領子が乳母となった。 |
| 東宮傅は左大臣・藤原経宗、春宮坊は大夫・宗盛、権大夫・兼雅、亮・重衡、権亮・維盛という陣容であり、後白河法皇の近臣は排除された。 |
| さらに清盛は、摂関家領を奪われたことで平氏に敵愾心を燃やす関白・基房を後白河から切り離して自派に引き入れるために、基房の妻(忠雅の娘)も乳母に迎えようとした。 |
| 鹿ケ谷の陰謀で検非違使の惟宗信房・平資行・平康頼が陰謀に加担していたことから、検非違使庁改革のため経験豊富な時忠に白羽の矢が立てられたと推測される。 |
| 6月に盛子、7月に重盛が相次いで死去したのを機に、後白河法皇は盛子の荘園・重盛の知行国を没収し、清盛の支援する近衛基通を無視して基房の子・師家を権中納言にした。 |
| 激怒した清盛は11月14日にクーデターを起こし、反平氏公卿・院近臣の大量解官が断行された(治承三年の政変)。 |
| 時忠の管轄していた検非違使庁からも大江遠業・平資行・藤原信盛が解官となり、欠員補充として藤原景高・忠綱・友実・源光長が新たに任じられた。 |
| 支援したのは二条天皇の准母・八条院で、後白河法皇と密接につながる園城寺、関白配流に反発する興福寺も同調したことから、新政権にとって大きな脅威となった。 |
福原行幸と反乱の激化
| 6月2日、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇は福原に向かった。 |
| 東海道諸国が反乱軍の手の中に落ちていく状況の中で、11月6日、時忠は美濃を東国に対する防衛線とするため、美濃源氏に宣旨を下して味方につける案を出す『吉記』治承4年11月6日条。 |
| 11月22日、高倉上皇の命を奉じた時忠は天台座主・明雲を通して、日吉社・延暦寺領荘園に対して還都と引き換えに反乱軍の防御・掃滅に当たることを指示した『吉記』治承4年11月22日条。 |
一門都落ち
| 法皇にとって平氏が安徳天皇を連れて逃げていったのは不幸中の幸いであり、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院近臣を送り込んで政治の主導権を確立すると、8月20日、都に残っていた四宮(高倉の第四皇子・尊成親王、後鳥羽天皇)を践祚させた。 |
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1146年
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17歳で非蔵人、翌年正月に六位蔵人となる |
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1160年
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時忠は検非違使・右衛門権佐に抜擢された |
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