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つながりの強いひと
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平重盛
親
平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。保元・平治の乱で若き武将として父清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身とともに累進し、最終的には左近衛大... |
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小泉孝太郎
日本の俳優、タレント。イザワオフィス所属。第87・88・89代内閣総理大臣・小泉純一郎の長男、政治家・小泉進次郎の兄。愛称は孝太郎、こうちゃん、こいちゃ... |
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平清盛
平安時代末期の武将・公卿・政治家である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終... |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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平通盛
平安時代末期の平家一門の武将。平教盛の嫡男。平教経らの兄。妻は小宰相。越前三位と呼ばれた。本名は公盛。 |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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平知盛
平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は平時子。同母兄弟に平宗盛、平重衡、建礼門院がいる。官位は従二位行権中納言。世に新中納言と称された。 |
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平維盛
平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。治承・... |
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建礼門院右京大夫
平安時代末から鎌倉時代初期にかけての女流歌人。父は藤原(世尊寺)伊行。母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。承安3年(1173年)高倉天皇の中宮建礼門院... |
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平有盛
平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延... |
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安徳天皇
第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日)-寿永4年3月24日(1185年4月25日))。諱は言仁(ときひと)。 |
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平宗盛
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は... |
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平行盛
平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男である平基盛の長男。 |
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前田利長
安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。加賀藩祖である前田利家の長男(嫡男)として生まれる。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘... |
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平重衡
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称された。平氏の大将の一人として各... |
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平盛綱
鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の執権北条氏の家司。実名は盛国とも(平清盛の家人である平盛国とは別人)。内管領長崎氏の祖。『尊卑分脈』の系譜上は平資盛... |
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平教経
平安時代末期の平家一門の武将。平教盛の次男。『平家物語』では、数々の合戦において武勲を上げ、「たびたびの合戦で一度の不覚も取ったことはない」「王城... |
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源範頼
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生... |
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佐々木高綱
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の四男。通称は四郎。『平家物語』や『源平盛衰記』にそ... |
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梶原景時
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌... |
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プロフィール
- 平資盛とは
- 殿下乗合
- 一門都落ち
- 伝承
- 遺言
- 官歴
平資盛(たいらのすけもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。 平重盛の次男。母は 藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。叔母である 建礼門院に仕える優れた歌人の 建礼門院右京大夫と恋仲であった。平氏一門の全盛期に、当時13歳(もしくは10歳)の資盛が関わった殿下乗合事件は、『平家物語』に「これこそ、平家の悪行のはじまり」として描かれている。
殿下乗合
| 嘉応2年(1170年)7月3日、摂政・松殿基房の車と行き違った時に下馬の礼をとらなかったため、基房の家来と乱闘騒ぎを起こして資盛は恥辱を受けて逃げ帰った。 |
| これを知った父・重盛が基房に対して徹底的な報復を行っている殿下乗合事件なお『平家物語』においては報復を行ったのは祖父の清盛となっているが、これは清盛を悪役、重盛を平氏一門の良識派として描写する『平家物語』の演出の都合上の創作と言われている。 |
| 治承4年(1180年)年5月の以仁王の挙兵に際して、叔父の知盛、重衡、兄の維盛らと出陣し、源頼政と宇治平等院で戦いこれを滅ぼした。 |
| 同年12月、知盛とともに近江国へ出陣して山本義経を破る。 |
一門都落ち
| 寿永2年(1183年)7月、平氏は源義仲に敗れ都落ちを余儀なくされる。 |
| 『愚管抄』によれば、このときに資盛は寵愛されていた後白河法皇に都に残る許しを求めて拒絶されている。 |
| 『平家物語』の「太宰府落」で資盛は元重盛の家人であった豊後国の緒方惟義の説得工作に向かって追い返されているが、『玉葉』の寿永3年2月19日条に資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。 |
| 寿永3年(1184年)正月、一時勢力を回復した平氏は摂津国・福原まで進出。 |
| 正月末に義仲を滅ぼした源頼朝の代官源範頼・源義経の軍勢が平氏追討に向かう。 |
| 資盛は弟の有盛、師盛らと播磨国三草山に陣を置くが源義経の夜襲を受け、讃岐国・屋島へ敗走した(三草山の戦い)。 |
| その直後の2月7日、一ノ谷の戦いで平氏は一門の多くを失う致命的な大敗を喫する。 |
| 同年3月、一ノ谷の合戦前後に戦線を離脱した兄の維盛が那智の沖で入水自殺する。 |
| この知らせを受けた資盛は大いに嘆き悲しんだ。 |
| すでに弟の清経が豊後国で入水自殺しており、一ノ谷では14歳の師盛が討ち死にしている。 |
| 末弟の忠房は維盛の戦線離脱の際に同行していたと見られる。 |
| 清経と維盛の入水を知った建礼門院右京大夫から慰める手紙を受け取った資盛は、「今はただ自分の命も今日明日の事なので、ものを思う事をやめようという心境です」と返事を送り、兄弟の死について、と詠んでいる。 |
| これが右京大夫への最後の便りとなった。 |
| 前列右から三番目が資盛の墓石。 |
| 同年12月、資盛は備前国児島で源範頼と戦い敗北(藤戸の戦い)。 |
| 元暦2年(1185年)3月24日、平氏は壇ノ浦の戦いで敗れ、滅亡に至った。 |
| 平氏西走の道中、兄弟が次々と脱落していった中で最後まで一門として踏みとどまった資盛は、一人残った弟の有盛と従弟の行盛とともに壇ノ浦の急流に身を投じて自害した。 |
| 資盛の死を悲しんだ建礼門院右京大夫は供養の旅に出た。 |
| 彼女の作品『建礼門院右京大夫集』には彼女と資盛が交わした歌が多く残されている。 |
伝承
| 奄美群島には、資盛が行盛や有盛らと共に落ち延びたという伝説が残っており、行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られている。 |
| 資盛がもたらしたと言われている重要無形民俗文化財に指定されている「諸鈍シバヤ」などの風習も残っている。 |
| 信長を輩出した織田氏は資盛の末裔を自称している。 |
遺言
| 平氏一門の都落ち直前、密かに建礼門院右京大夫と会っていた資盛は、日頃からの口癖として彼女に以下のような事を言い残している。 |
| この頃の資盛は心の余裕のない様子だったという。 |
| 「こういう世の中になったからには、自分の身が儚くなるであろう事は間違いないだろう。 |
| そうなったら、あなたは少しくらいは不憫に思ってくれるだろうか。 |
| たとえ何とも思わなくても、あなたと親しくなって長いつきあいだから、その情けで、後世を弔ってほしい。 |
| もし、命が今しばらくあったとしても、今はいっさい昔の身とは思わないと心に堅く決めている。 |
| そのわけは、それが不憫であるとか、名残が惜しい、あの人の事が気がかりなどと考え始めたら、思うだけでもきりがないであろうから。 |
| 心弱さもどのようであるかと我ながら自信がないから、今後は何事も思い捨てて、どこの海にあってもあなたのところへ手紙を出したりするまいと決心しているので、おろそかに思って便りもしないとは思わないで下さい。 |
| 万事、もう今から死んだと同じの身になったと心を決めたはずなのに、やはりともすれば以前の気持ちになってしまいそうなのが、とても口惜しい。 |
| 」(参考文献:『建礼門院右京大夫集』新潮日本古典集成)。 |
官歴
| 永万2年のち改元して仁安元年(1166年)。 |
| 11月21日:従五位下。 |
| 12月30日:越前守。 |
| 仁安4年のち改元して嘉応元年(1169年)。 |
| 正月5日:従五位上(皇太后・平滋子御給)。 |
| 嘉応3年のち改元して承安元年(1171年)。 |
| 4月7日:越前守重任。 |
| 承安4年(1174年)。 |
| 12月4日:侍従兼任。 |
| 承安5年のち改元して安元元年(1175年)。 |
| 正月22日:越前守得替。 |
| 12月8日:正五位下。 |
| 治承2年(1178年)。 |
| 12月24日:右近衛権少将。 |
| 治承3年(1179年)。 |
| 正月2日:従四位下(上西門院御給)。 |
| 治承4年(1180年)。 |
| 4月8日:従四位上(高倉上皇の福原御幸)。 |
| 治承5年のち改元して養和元年(1181年)。 |
| 5月26日:正四位下(上西門院御給)。 |
| 10月12日:右近衛権少将を辞任。 |
| 10月29日:右近衛権中将。 |
| 寿永2年(1183年)。 |
| 正月22日:蔵人頭。 |
| 7月3日:従三位。 |
| 右近衛権中将如元。 |
| 8月6日:解官。 |
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1170年
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摂政・松殿基房の車と行き違った時に下馬の礼... |
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1183年
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平氏は源義仲に敗れ都落ちを余儀なくされる |
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