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つながりの強いひと
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平清盛
平安時代末期の武将・公卿・政治家である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終... |
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平忠盛
平安時代末期の武将。平清盛の父。父は平正盛。烏帽子親は義兄の源義忠。伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力... |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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安徳天皇
第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日)-寿永4年3月24日(1185年4月25日))。諱は言仁(ときひと)。 |
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藤原宗兼
母
「藤原宗兼」の検索結果 Yahoo!画像検索結果 - 藤原宗兼 一覧SEO対策ここで藤原宗兼 talent.yahoo.co... 藤原宗兼 miko.org/~uraki... 宗子(藤原宗兼女... |
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高倉天皇
平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年3月30日)-治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 |
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福原京
平安時代末期の治承4年(1180年)、計画のみに終った和田京に続いて、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。 |
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以仁王
平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平家打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、高倉宮... |
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平為盛
寿永2年(1183年)5月12日、倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲の部将樋口兼光に首をはねられ討死したと記されているが、延慶本『平家物語』には、平家都落ち後に解... |
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池禅尼
母
平安時代末期の女性。平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。後に崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母となる。父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘。中関白道隆の男隆家... |
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後白河天皇
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日)-建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日)-保元3年8月1... |
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平教盛
平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。平通盛、平教経の父。保元の乱、平治の乱で兄の... |
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木曽義仲
木曽義仲史学会は10、11日、創立10周年記念の総会と研修会を木曽町で開いた=写真。一般の聴講も目立ち、今井弘幸会長=木曽町日義=は「地道な取り組みを続... |
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二条天皇
二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日)-永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日)-永... |
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北条時政
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。伊豆国の在地豪族の北条時方もしくは北条時家の子。源頼朝の妻北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。家系は桓武平氏平直方... |
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平宗盛
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は... |
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持明院基家
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。大蔵卿藤原通基の三男。後堀河天皇の外祖父。官位は正二位・権中納言。 |
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平維盛
平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。治承・... |
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西園寺公経
鎌倉時代の公卿・歌人。内大臣藤原実宗の子。西園寺家の実質的な祖とされている。従一位・太政大臣。一条入道太相国、西園寺を号す。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経... |
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藤原宗子
母
いかにして将軍・徳川綱吉の母となったのか? 女の嫉妬渦巻く大奥での駆け引きと親子の情をからめて、波瀾の女人の一生を描く書き下ろし長篇。 著者紹介: 〈... |
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プロフィール
- 平頼盛とは
- 生い立ち
- 保元の乱
- 平治の乱
- 重盛との格差
- 公卿昇進と大宰府赴任
- 参議就任と解官
- 政界復帰と八条院への接近
- 鹿ケ谷の陰謀
- 院政停止
- 内乱の勃発と清盛の死
- 宗盛との協調
- 京都残留
- 頼朝の厚遇
- 終焉
平頼盛(たいらのよりもり)は、平安時代末期の平氏一門の武将・公卿。 平忠盛の五男。母は修理大夫・ 藤原宗兼の女、宗子( 池禅尼)。通称は池殿、池大納言。 平清盛の異母弟。
生い立ち
| 長承2年(1133年)に生まれる。 |
| 母の藤原宗子は待賢門院近臣家の出身だったが、従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいたことから美福門院ともつながりがあった。 |
| その幅広い人脈により「夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者(夫の忠盛をも支えるほどの者)」(『愚管抄』)と呼ばれ、忠盛の妻たちの中で最も重んじられていた。 |
| 清盛は忠盛の長子だったが生母はすでに死去していたため、宗子の産んだ次男・家盛が母の後押しで嫡子となる可能性もあった。 |
| 久安3年(1147年)に清盛が祇園闘乱事件を引き起こして処罰されたことにより、家盛の存在感は急速に高まった。 |
| 同年12月に常陸介となり、翌久安4年(1148年)正月には従四位下・右馬頭となって清盛に迫る勢いを示すが、久安5年(1149年)病死してしまう。 |
| 忠盛の落胆は大きかったが、清盛は対抗馬が消えたことで後継者の地位を確実なものとした。 |
| 頼盛は家盛の同母弟といっても清盛とは15歳の年齢差があり、清盛を押しのけることは無理だった。 |
| それでも頼盛は正室のただ一人の子として優遇されていて、家盛の地位を継承して17歳で常陸介に任じられている。 |
| この時点では異母兄の経盛・教盛は受領ではなく、頼盛は一門の中で清盛に次ぐ位置にいた。 |
保元の乱
| 久安6年(1150年)宗子は崇徳上皇の第一皇子・重仁親王の乳母となり、忠盛は乳父(めのと)になった。 |
| 重仁は次期皇位の最有力候補であり即位が実現すれば、忠盛は大きな権力を手にできるはずだった。 |
| しかし仁平3年(1153年)、忠盛は公卿昇進を目前に病死した。 |
| 久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御した。 |
| 後継天皇は信西の画策により、第一候補だった重仁親王ではなく雅仁親王(後白河天皇)が指名され、政情は大きく変化する。 |
| 保元元年(1156年)、鳥羽法皇崩御により保元の乱が勃発すると、忠盛・宗子が重仁親王を後見する立場にあったことから平氏一門は難しい立場に立たされた。 |
| 宗子は「コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。 |
| 勝ツベキヤウモナキ次第ナリ」と崇徳方の敗北を予測して、頼盛に「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」と協力することを命じた(『愚管抄』)。 |
| この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持することに成功した。 |
| 保元の乱の後、頼盛は兄・教盛とともに昇殿を果たす。 |
| 清盛が乱の功績により播磨守になったことで、頼盛は清盛の知行国・安芸国の受領となった。 |
| 頼盛自身の知行国・常陸国の受領には代わりに兄・経盛が任じられる。 |
| 教盛は淡路守であり、平氏は兄弟で4つの知行国を確保した。 |
| 保元2年(1157年)になると信西は大内裏の再建を行い、頼盛は貞観殿の造営を担当したことで従四位下に叙せられる。 |
| 翌保元3年(1158年)8月には2回目の常陸介となり、10月には藤原顕長と知行国を交換して三河守となった。 |
| この年には清盛の長子・重盛も遠江守となっている。 |
| 頼盛と重盛は叔父と甥だったが5歳の年齢差で、ほぼ同年代といってよかった。 |
| 平氏は清盛が棟梁として全体を取りまとめ、頼盛・重盛が屋台骨を支える形となった。 |
平治の乱
| それを如実に示したのが、平治元年(1159年)に起こった平治の乱だった。 |
| 頼盛は27歳、重盛は22歳であり、「平氏ガ方ニハ左衛門佐重盛・三河守頼盛、コノ二人コソ大将軍ノ誠ニタタカイハシタリケルハアリケレ」(『愚管抄』)とあるように、平氏軍の主力を率いて戦場に臨んだ。 |
| 『平治物語』では重盛の活躍が華々しく記されているが、頼盛も父から譲り受けた名刀「抜丸」で奮戦するなど、合戦で大きな役割を果たしていたことがうかがえる。 |
| 乱は平氏の勝利に終わり、頼盛は尾張守となった。 |
| 翌永暦元年(1160年)2月、頼盛の郎等・平宗清が逃亡中の源頼朝を捕らえた。 |
| 尾張国は京都と東国を結ぶ交通の要衝に当たるため、頼盛が尾張守に任じられたのは、東国に逃れる源氏の残党を追捕するための措置だったとも考えられる。 |
| 『平治物語』では、頼朝が家盛に生き写しだったことから宗子が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される『愚管抄』には北条時政の後妻である牧の方の父、大舎人允・宗親は頼盛の長年の家人であり、頼盛から駿河国・大岡牧の管理を任されていたと記されている。 |
| 『尊卑分脈』には宗子の弟に宗親という名が見られ、両者は同一人物の可能性がある。 |
| したがって時政による頼朝の監視・保護は、宗子・頼盛の意向によるという指摘もある(杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、上横手雅敬監修、思文閣出版、1994年、ISBN4784208186)。 |
| ただし時政と牧の方の婚姻時期を明確に記す史料はなく、平治の乱の時点で宗子・頼盛と時政がつながっていたかは定かでない。 |
| 牧の方が乱の前年(1158年)、時政に15歳で嫁いだと仮定すると、文治5年(1189年)生まれの政範は牧の方が46歳で産んだことになり、やや無理が生じる。 |
重盛との格差
| 平治の乱の後、清盛は平氏一門で初めての公卿となる。 |
| 平氏の勢力は他より抜きん出たものとなったが、乱で共に活躍した頼盛と重盛は、官位において大きく明暗を分けることになる。 |
| 永暦元年(1160年)に重盛が従四位上・内蔵頭となったのに対して、頼盛の官位はそのまま据え置かれた。 |
| 応保元年(1161年)に頼盛は正四位下となり位階では上回るが、重盛も応保2年(1162年)に正四位下、長寛元年(1163年)には従三位、長寛2年(1164年)には正三位と瞬く間に引き離し、永万元年(1165年)には28歳で早くも参議となった。 |
| 頼盛は33歳で正四位下・修理大夫に過ぎず、一門における地位の低下は明らかであった。 |
| 頼盛が甥の急速な昇進をどのように見ていたかは知る由もないが、長寛2年(1164年)、清盛が装飾経33巻(『平家納経』)を厳島神社に奉納した際は、重盛・経盛・教盛らとともに書写に携わった。 |
| 『平家納経』の中の「提婆品」は頼盛の直筆とされる。 |
公卿昇進と大宰府赴任
| 永万元年(1165年)に二条天皇が、永万2年(1166年)に摂政・基実が相次いで薨去したことにより、二条親政派は瓦解して後白河院政派が息を吹き返した。 |
| 頼盛は7月に大宰大弐となり、仁安と改元された8月27日には従三位に叙せられて、平氏で3人目の公卿となった。 |
| この同じ日には藤原成親が参議となり、藤原成範が従三位に叙せられるなど、院近臣の躍進が目立った。 |
| 頼盛の叙位も、後白河近臣としての活動が評価されたものと推測される。 |
| 自らの政治力強化を目指す後白河は、清盛の協力により憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子を実現させた。 |
| 10月10日、立太子の儀式が公卿や平氏一門の出席のもと盛大に執り行われ、清盛は春宮大夫に任じられる。 |
| 頼盛は大宰大弐として現地に赴任していたため、この式典には欠席している。 |
| 大宰府の長官は現地に赴任しないのが当時の慣例になっていて、日宋貿易を直接掌握する狙いがあったとしても不可解な行動といえる。 |
| 憲仁立太子直後の28日に頼盛は皇太后宮権大夫に任じられているが、この時の皇太后は藤原呈子だった。 |
| 呈子は美福門院の養女だったので、頼盛は親近感を抱いていたと思われる。 |
| 一方で憲仁の母・平滋子との交流はほとんどなく、疎遠な関係にあった。 |
| 清盛にとって一門の足並みを乱す頼盛の行動は問題だったが、九州に平氏の勢力を広げること自体は悪い話ではなかったので、多少の黙認はしていたものと考えられる。 |
| 仁安2年(1167年)正月に六条天皇が院御所に行幸すると、頼盛は九州にいたにも関わらず正三位に叙せられている。 |
参議就任と解官
| 仁安2年(1167年)5月17日、清盛は太政大臣を辞任する。 |
| それに先立つ5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下される(『兵範記』同日条)。 |
| これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任されることになり、清盛の平氏棟梁の地位は重盛に継承されることになった。 |
| 8月には重盛の弟・宗盛が参議に昇進して、平氏4人目の公卿となった。 |
| 翌仁安3年(1168年)3月、呈子が院号宣下を受けて九条院となったため、頼盛は皇太后宮権大夫を辞任する。 |
| この院号宣下は后位に空席を設けるための追い出し工作であり、入れ替わりに滋子が皇太后となる。 |
| 滋子の猶子となっていた宗盛は、皇太后宮権大夫となった。 |
| 8月、頼盛より位階が下の兄・教盛が参議に任じられ、平氏5人目の公卿となる。 |
| 頼盛は正三位だったが非参議であり、参議になることは悲願だった。 |
| 10月18日、頼盛はついに待望の参議となるが、わずか一月後の11月28日、子の保盛とともに全ての官職を解官されてしまう。 |
| 解官の理由は、保盛については五節の節会で舞姫参入・御覧の儀式の勤めを、後白河の指示に従わず毎度怠ったこと、頼盛については、3月26日の滋子の代始めの入内に奉仕しなかったこと、休暇願いを出さずに無断で厳島神社に参詣したこと、鎮西を知行していたにも関わらず大嘗会関係の課役を勤めなかったことだった。 |
| 高倉天皇の即位や妻の滋子に関することであったため、後白河の怒りは激しいものがあった(『兵範記』仁安3年11月28日条)。 |
| 処罰はそれだけにとどまらず、12月には頼盛の家人6名が解官される(『兵範記』12月13日条)。 |
| 解官の背景には、独自の動きを見せていた頼盛を完全な統制下に置くことで、重盛の地位を守ろうとする清盛の意思が介在していた可能性もある。 |
| 頼盛の失脚は一年の長きに渡り、出仕が許されたのは嘉応元年(1169年)11月だった。 |
政界復帰と八条院への接近
| 嘉応元年(1169年)12月の嘉応の強訴では、頼盛は重盛・宗盛とともに官兵を率いて待機していた。 |
| 八条院は美福門院の娘で、父母から荘園の大半を譲られて大きな財力・武力を有し、二条天皇の准母としてその後ろ盾となっていた。 |
| 八条院の乳母は源国房の娘で宰相局と呼ばれていたが、頼盛は宰相局の娘で八条院女房の大納言局を妻に迎え、光盛が生まれている。 |
| 光盛は承安2年(1172年)の生まれなので、両者の婚姻は承安元年(1171年)以前と見られる。 |
| 後に頼朝は荘園33ヶ所を頼盛に返還しているが、そのうちの14ヶ所が八条院領だったことを見ても関係の深さがうかがえる(『吾妻鏡』元暦元年4月6日条)。 |
鹿ケ谷の陰謀
| 同日、藤原成範も権中納言となり、藤原定能・藤原光能が他の有力候補者を押しのけて蔵人頭に抜擢されている。 |
| 翌安元3年(1177年)、重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将となり、後白河が福原を訪問したことで対立は緩和されたかに見えたが、4月に延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こすと亀裂は逆に深まっていく。 |
| 後白河は延暦寺に対して強硬策をとり、師高の父・西光の進言で天台座主・明雲を解任、伊豆国に配流した。 |
| 重盛にとって義兄の成親が平氏打倒の首謀者だったことは衝撃だったが、頼盛も謀議に加わっていた法勝寺執行・俊寛が妻・大納言局の兄弟だったことから、厳しい視線にさらされたものと見られる。 |
| 藤原成経・平康頼が赦免された時に俊寛だけが許されなかったのは、頼盛に対する威圧・牽制があったのではないかと推測される。 |
院政停止
| 治承2年(1178年)、中宮・徳子が懐妊する。 |
| 『山槐記』『玉葉』を見ると徳子出産に関連する行事には、重盛・頼盛・時忠・維盛の4人が多く参仕していたことが確認できる。 |
| このうち重盛は徳子の養父であり、時忠・維盛はそれぞれ中宮権大夫・権亮なので不思議ではない。 |
| さらに清盛の支援する基通ではなく、関白・基房の子・師家が権中納言になったことが引き金となり、11月14日、清盛はクーデターを起こした(治承三年の政変)。 |
内乱の勃発と清盛の死
| 一門の知行国には兵糧米が課せられ、能登国(教盛の知行国)・但馬国(経盛の知行国)は了承したが、紀伊国・佐渡国(頼盛の知行国)は「力及ばず」と返答した(『山槐記』12月10日条)。 |
宗盛との協調
| 頼盛は、保盛は正四位下であり昇進させると通盛(教盛の子)・経正(経盛の子)より突出してしまうとして、光盛に賞を譲らせた(『吉記』同日条)。 |
| 寿永2年(1183年)2月、宗盛の嫡子・清宗と頼盛の娘の婚姻が成立しているが、これは宗盛が頼盛を自らの陣営に引き入れるための懐柔策であったと推測される(『吉記』2月21日条)。 |
京都残留
| 寿永2年(1183年)5月、平氏の北陸追討軍は木曾義仲に撃破され(倶利伽羅峠の戦い)、これまで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。 |
頼朝の厚遇
| 4月、頼朝は頼盛に荘園33ヶ所を返還しているが(『吾妻鏡』4月6日条)、この荘園の返還は頼朝による本領安堵であり、頼盛はこれによって鎌倉との主従関係に組み込まれたとする見方もある岡野友彦『源氏と日本国王』、講談社、2003年、ISBN4061496905。 |
終焉
| 文治2年(1186年)正月に後鳥羽天皇の方違行幸が行われた時、八条院の邸宅が地震により破損が著しく修復も済んでいなかったため、隣の頼盛邸に白羽の矢が立ったが頼盛は「家に穢れがある」と称して固辞した(『玉葉』正月5、6、7日条)。 |
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清盛が祇園闘乱事件を引き起こして処罰された... |
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