| 岡藩士・広瀬友之允の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。 |
| 幼少時に母親と死別し、祖母に育てられる。 |
| 西南戦争により竹田の自宅が焼失し、一家で飛騨高山へ転居した。 |
| 飛騨高山の煥章(かんしょう)小学校(現・高山市立東小学校)を卒業後に小学校教師を務め、明治18年(1885年)に退職して攻玉社を経て海軍兵学校入校、講道館で柔道も学ぶ柔道名試合物語松本鳴弦褸河出書房1956年100頁。 |
| 明治22年(1889年)に卒業。 |
| 入学時席次は19番、卒業時は80人中64番(49番という説もある)。 |
| 兵学校卒業後、翌明治23年(1890年)2月まで軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海。 |
| その間に少尉に任官。 |
| 半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事。 |
| この時期、静岡県清水に寄港し、清水次郎長と知己を得る。 |
| 明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し、同28年(1895年)には大尉に昇進。 |
| 明治30年(1897年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。 |
| 旅順港などの軍事施設も見学する。 |
| その後ロシア駐在武官となり、明治33年(1900年)に少佐昇進。 |
| 明治35年(1902年)に帰国する。 |
| 明治37年(1904年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。 |
| 第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮する。 |
| 撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死。 |
| 即日中佐に昇進した。 |
| 流れ着いた遺体はロシア軍により埋葬された。 |
| 日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には昭和10年(1935年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。 |
| また文部省唱歌の題材にもなる。 |
| また、直撃を受けたさい、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。 |
| その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。 |
| 明治末期に、銅像が国内に3体建造された。 |
| 明治38年(1905年)3月、岐阜県高山市の城山公園中佐平に胸像。 |
| 明治43年(1910年)5月に東京の旧万世橋駅前に銅像(杉野孫七像とあわせての群像)『東京日日新聞』明治41年(1908年)12月26日朝刊東京版によると、海軍兵学校同窓の財部、森両名が発起。 |
| 東京日日新聞、時事新報、大阪毎日新聞の3紙が寄付金を募集。 |
| 読者から2万3千円が集まった。 |
| 同年12月23日に東京市長の工事許可が出た。 |
| 22尺の台基の上に12尺の立像。 |
| 台石の前面には杉野兵曹長の座像を、背面には錨一挺を配する、とある。 |
| が建てられたが、昭和22年(1947年)東京都によって撤去された『朝日新聞』昭和22年(1947年)7月23日朝刊東京版。 |
| また木村荘八『東京の風俗』(冨山房百科文庫)でも扱った章がある。 |
| なお「全集」は講談社。 |
| 明治45年(1912年)5月に誕生地大分県竹田市に立像が建てられた。 |
| 上記の3体のうち、現在は高山市の城山公園と竹田市の広瀬神社に銅像が存在するが、明治に建造されたものは戦時中に供出されており、2体とも復元である。 |
| 平成22年(2010年)10月、竹田市立歴史資料館の広場にブロンズ立像が建立された。 |
| 竹田市の有志による広瀬武夫ブロンズ像建立実行委員会が、大分県出身の彫刻家である辻畑隆子に製作を委嘱。 |
| 立像は身長2.6メートル、総事業費は2,350万円。 |
| 10月22日の除幕式には、市民ら約150人が参加。 |
| 祝詞奏上などの神事の後、竹田市ゆかりの作曲家、滝廉太郎の荒城の月が篠笛で演奏された。 |
| 首藤勝次・竹田市長は「今は政治も文化も混迷の時代だが、広瀬武夫像が私たちの大きな羅針盤となって未来を指し示してくれると思う」とあいさつ。 |
| 広瀬武夫の親族にあたる広瀬武尚が「日本人の本来の心を思いだすきっかけになってほしい」と話した。 |
| ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会のアナトリー・コワリスキー大佐(機雷敷設の専門家)の娘・アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られているХрущая,С.А.,''ИсторияЛюбвиэпохимодерн(АриаднаКовальскаяиХиросеТакео)'',Журнал"Кортик",Флот,история,люди,№5(2007)。 |
| 武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したといわれる。 |