| 地皇3年(22年)4月、更始将軍・平均侯となっていた廉丹は、太師王匡と共に、精鋭10万の軍勢を率いて赤眉軍の討伐に向かった。 |
| しかし王匡・廉丹は、進軍先で部下に放縦の限りを尽くさせたため、「赤眉軍に逢っても、太師(王匡)には逢うな。 |
| 太師はまだ良い、更始(廉丹)には殺されるぞ」との格言が出来るほどであった。 |
| 途中、定陶(済陰郡)に到達したところで、王莽から「倉庫の糧食は尽きた。 |
| 政府の蔵は空だ。 |
| 将軍は国家の重大な任務を背負っておられるので、戦場で身を捧げなければ、報恩にして責務を尽くしたことにはならない」との文面の手紙が届いたため、不安を抱いた廉丹は配下の馮衍と相談している。 |
| 馮衍は、新を見限り独立割拠して情勢の変化を待つべき旨を説いたが、廉丹はこれに従わなかった。 |
| 同年冬、無塩(平郡)で蜂起していた索盧恢を鎮圧し、廉丹は公に昇進している。 |
| まもなく赤眉軍の別働隊の将董憲が梁郡で活動しているという情報が入り、王匡は直ちにこれを討伐しようとした。 |
| 廉丹は兵士の休養が必要と諫言したが、王匡は聞かず、廉丹も已む無くこれに従う。 |
| そして成昌(東平郡?)で董憲と交戦したが敗北した。 |
| 逃走する王匡に、廉丹は自らの印韍と符節を渡した上で「小僧は逃げることもできよう。 |
| だが、私はそうも行かない」と言い、その場に踏みとどまって戦死した。 |
| 王莽は廉丹の死を悼み、果公の謚号を贈っている。 |