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つながりの強いひと
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杉田玄白
友達
江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩(福井県)医。私塾天真楼を主催。父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁。杉田... |
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大槻玄沢
友達
仙台藩の支藩一関藩(田村氏領)出身の江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。磐水(ばんすい)と号す。『解体新書』の翻訳で有... |
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前野良沢
豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。『解体新書』の主幹翻訳者の一人。良沢は通称で、名は熹(よみす)、字は子悦、号は楽山、のちに蘭化。 |
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大槻磐渓
幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で... |
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大槻文彦
日本の国語学者。本名は清復、通称は復三郎、号は復軒。江戸出身。日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名。宮城師範学校(現・宮城教育大学)校... |
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高野長英
江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批... |
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平賀源内
平賀源内(ひらがげんない、享保13年(1728年)-安永8年12月18日(1780年1月24日))は江戸時代の日本の本草学者、蘭学者、医者、作家、発明家、画家(蘭画家... |
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桂川甫周
医師及び蘭学者。名は国瑞(くにあきら)であり、甫周は通称である。月池・公鑑・無碍庵などの号を用い、字は公鑑。父桂川家3代目桂川甫三は、前野良沢、杉田... |
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宇田川玄真
江戸時代後期の蘭方医。本姓は安岡、名は璘。玄真は字。榛斎と号す。養父は宇田川玄随、養子に宇田川榕菴。江戸蘭学における大槻玄沢の実質的後継者。門弟に... |
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小野蘭山
江戸時代の大本草学者。名は識博(もとひろ)、通称は喜内、字は以文、号は蘭山、朽匏子。しばしば「日本のリンネ」と称される。京都出身。門弟に杉田玄白、... |
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安田健
■安田 健示
YASUDA KENJI (プロフィール)
1971年生まれ
日本写真専門学園卒業
20代の頃よりカメラを片手に国内、海外をまわり作品を寄稿
1991年 ... |
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中川淳庵
中川淳庵(なかがわじゅんあん/じゅんなん、元文4年(1739年)-天明6年6月7日(1786年7月2日)は江戸時代中期の医者・本草学者・蘭学者。はじめ純安と名乗る... |
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高平小五郎
高平小五郎(たかひらこごろう、嘉永7年1月1日(1854年1月29日)-大正15年(1926年)11月28日)は明治時代の日本の外交官。男爵、枢密顧問官等を務めた。 |
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大蔵永常
江戸時代の農学者。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人。三河国田原藩産物御用掛や遠江国浜松藩の興産方を勤める。 |
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安孫子麟
安孫子 麟 (アビコ リン) (Rin Abiko ) - ID:1 科研費研究者番号 : 1 直近の所属(KAKENから) : 宮城教育大学 研究分野(KAKENから) : 経済史 キーワー... |
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青木昆陽
江戸時代中期の儒学者、蘭学者である。名は敦書、字は厚甫、通称は文蔵、昆陽と号した。 |
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稲村三伯
稲村三伯(いなむらさんぱく、宝暦8年(1758年)-文化8年(1811年)1月16日)は江戸時代後期の蘭学者。名は前、字は白羽。石井庄助、宇田川玄真らの協力で、... |
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建部綾足
江戸時代中期の俳人・小説家・国学者・画家。片歌を好み、その復興に努めた。 |
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芦東山
江戸時代中期の仙台藩の儒学者。国内の刑法思想の根本原理を論じた、「無刑録」の著者。陸奥国東磐井郡(現岩手県一関市大東町渋民)に生まれ、幼少より才覚... |
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山村才助
江戸時代後期の地理学者。父は土浦藩士の山村昌茂(司)、母はまき。才助は通称で、名は昌永、字は子明、号に夢遊道人。 |
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プロフィール
- 建部清庵とは
- 生い立ち
- 杉田玄白との出会い
- 『民間備荒録』
- 『備荒草木図』
- 家系
- 弟子たち・子供たち
- 関連項目
建部清庵(たてべせいあん、正徳2年7月11日(1712年8月12日)-天明2年(1782年))は江戸時代中期の医者。陸奥国一関の地から 杉田玄白と書簡を交わし、蘭学の発展に協力した。名は由正(よしまさ)。
生い立ち
| 正徳2年川小路に生れ、享保15年(1730年)、19歳で仙台に遊学。 |
| その後江戸に出てオランダ医学を学ぶ。 |
| その際、蘭方医の家として有名な桂川家に入門を願ったが、当時桂川家は弟子をとらないことにしており認められなかった。 |
| 帰郷後、37歳で元水の後を継ぐ。 |
| 以来一関を出ることはなかったという。 |
| 清庵の医術は絶妙を極め、生前から、。 |
| ''「一ノ関に過ぎたるものが二つあり。 |
| 時の太鼓に建部清庵」''。 |
| と歌われるほどだった。 |
| なお時の太鼓というのは、御三家格の大名でないと認められない時の太鼓が、特別に一関藩に認められたことを指す。 |
杉田玄白との出会い
| 清庵はオランダ流の医術を行っていたが、その医学としての基礎がはっきりしないことに不満を持っていた。 |
| 明和7年(1770年)閏6月18日、日頃の疑問を書簡にし、弟子の衣関甫軒にそれを託した。 |
| 「江戸にオランダ流医学の偉い先生がいたら疑問を解いてほしい」ということで、特に相手を定めての書簡ではなかった。 |
| しかし、江戸の蘭方医も清庵の疑問を解くことはできず、書簡はむなしく一関に戻された。 |
| 衣関甫軒は再度江戸へ向かって、安永2年(1773年)の正月(あるいは前年の暮れ)、今度はしかるべき人物に書簡を届けることができた。 |
| 『解体新書』の翻訳作業を行っていた杉田玄白である。 |
| 『解体新書』はそれまでの医書とはまったく違ったものであり、その出版には、玄白も不安を抱いていたらしい。 |
| そこへオランダ医学への情熱に満ちた書簡が届いた。 |
| 玄白にとっては強力な味方を得た思いであっただろう。 |
| またそこに書かれている疑問はいずれも正鵠を得たものであり、清庵の見識に玄白は感動した。 |
| 急いで返書を書き、発行されたばかりの『解体約図』を添えて清庵へ送り届けた。 |
| 一方、清庵は、返書と『解体約図』に感動し、「口開きて合わず、舌挙がりて下らず、頻りに感涙仕り…」というほどだった。 |
| 以後、清庵と玄白は何度も手紙を交換し、堅く結びつくこととなる。 |
| のちに、二人のあいだに交わされた手紙は、玄白の蘭学塾において初学者に対するオリエンテーションとして読まれた。 |
| 寛政7年(1795年)、大槻玄沢、杉田伯玄らは最初の2往復を『和蘭医事問答』の題名で出版した。 |
『民間備荒録』
| 江戸時代の東北地方にはしばしば、冷害によって飢饉が起こり、多数の餓死者が出た。 |
| 清庵はその惨状を眼にする。 |
| ある日、友人の郷内勝清の家で、明の兪汝為の『荒政要覧』を見て、これをヒントに救荒書の編纂を思い立つ。 |
| 宝暦5年(1755年)、『民間備荒録』上下2冊を発行した。 |
| 上巻では、飢饉に備えて食用となる樹木を植え、食料を備蓄する方法を述べている。 |
| 下巻では、具体的に草や木の葉を食べる方法、解毒法、応急手当法などを述べている。 |
| 一関藩の奉行・代官を通じて、藩内の村々に配られたという。 |
| 印刷された救荒書としては早くに出たもの。 |
| 何度か版を重ね、16年後の明和8年(1771年)には江戸で出版された。 |
『備荒草木図』
| 清庵は『民間備荒録』の続編として、その中の植物を図で記した『備荒草木図』を表そうとした。 |
| そのために、本職が本草学者である平賀源内にも、衣関甫軒を通じて質問したという。 |
| もしかすると、甫軒に玄白のことを知らせたのは源内かもしれない。 |
| 明和8年(1771年)にいちおう稿はできたが、刊行は天保4年(1833年)になる。 |
| その際、杉田伯玄などが協力した。 |
| 『民間備荒録』、『備荒草木図』で紹介されている草木は185種にのぼる。 |
| 一関市の釣山公園内には、これらの植物を植えた「清庵野草園」がある。 |
家系
| 建部清庵と言えば、杉田玄白と書簡を交わした建部清庵由正が有名であるが、清庵の名跡は五代続いている。 |
| 由正はそのうちの二代目にあたる。 |
| 初代建部清庵元水はもと江戸の人。 |
| 陸奥地方に遊んだとき、岩谷堂(奥州市江刺区)に住んで町医師として慕われたが、たまたま仙台に向かう旅先の一関で一年余り滞在し施療した。 |
| 藩主田村侯に聞こえ、懇望によって一関藩に仕えることとなった。 |
| 元水の息子が二代清庵由正である。 |
| 由正の長男は早世。 |
| 次男(三男の説あり)亮策が家督を継ぎ、三代清庵由水となる。 |
| なお由水は、同時期に杉田玄白に入門した大槻玄沢と終生親交を結んでいた。 |
| 文政5年(1822年)、玄沢のために『重訂解体新書』の序文を書いている(刊行は文政9年)。 |
| 玄沢は、おかげを被った人として、師である由正だけでなく同世代の由水の名も挙げている。 |
| その後、四代清庵由章、五代清庵由道と続く。 |
弟子たち・子供たち
| 安永7年(1778年)、清庵は玄白の天真楼塾に、次男の亮策と、秀才の弟子大槻茂質を送った。 |
| その後亮策は国元に帰り三代清庵由水となる。 |
| 大槻茂質はのちに大槻玄沢と名乗り、蘭学塾芝蘭堂を開き、蘭学の発展に大いに貢献する。 |
| 玄白は晩婚であった。 |
| 男子も産まれたが虚弱であり、養子を探していた。 |
| 天明2年(1782年)5月15日、玄白の塾で学んでいた清庵の第五子(四男?)由甫を養嗣子に迎え、杉田伯玄とした。 |
| 同年、一関の地で、建部清庵由正没。 |
| いちど杉田玄白と会いたいと望みながら、それは叶わなかった。 |
| 寛政5年(1793年)、杉田伯玄は玄白の娘の扇と結婚する。 |
| やがて恭卿、白元らの子ができる。 |
| 清庵と玄白・源内とのあいだを取り持った弟子の衣関甫軒は、眼科として一家を構えた。 |
| その子である貫もまた眼科学の発展に貢献する。 |
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1712年
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建部 清庵(たてべ せいあん、正徳2年7月11日... |
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1730年
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19歳で仙台に遊学 |
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建部清庵さんについてのひとこと紹介
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