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つながりの強いひと
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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王仁
記紀に記述される百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。高... |
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応神天皇
第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日(270年2月8日)-同41年2月15日(310年3月31日))。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけの... |
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始皇帝
始皇帝(,シーフアンティ)または秦始皇(,チンシーフアン)と称される。元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上... |
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曇徴
7世紀に高句麗から渡来した僧。『日本書紀』によれば、610年(推古天皇18年)高句麗王から貢上されて僧法定(ほうじょう)とともに日本へ来朝した。五経に詳... |
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葛城襲津彦
葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ、曽都毘古・沙至比跪、生没年不詳、4世紀後半~5世紀前半頃?)は大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されて... |
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阿直岐
阿直史と関係があろう。 [ 執筆者:志田諄一 ] カテゴリ一覧 : 歴史 > 日本史古代 > 原始・大和・飛鳥人名 このページのトップへ [ 日本大百科全書 ( ... |
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阿知使主
魏・呉・蜀の有名な三国志の時代が終わり、統一王朝・晋が興りました。 その時代、朝鮮半島より渡ってきた阿知使主(あちのおみ)一族が、当時海島であった鶴... |
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秦河勝
6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏出身の豪族。姓は造。秦丹照または秦国勝の子とする系図がある。冠位は大花上。 |
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西文氏
西文氏 【かわちのふみうじ】 2件の用語解説(西文氏で検索) Tweet 百科事典マイペディア の解説 古代 の渡来系 氏族 。書(ふみ)とも書く... |
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武内宿禰
『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人... |
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弥勒菩薩
弥勒菩薩(みろくぼさつ)、梵名マイトレーヤ(Skt.&x092e;&x0948;&x0924;&x094d;&x0930;&x0947;&x092f;)、パーリ名メッテイヤ(Pl.metteyya)は仏教の菩薩の一... |
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弓月光
日本の漫画家。高知県吾川郡伊野町(合併していの町に)出身。淳心学院高等学校卒業。1968年(昭和43年)に第1回りぼん新人漫画賞で準入選してデビュー。集英... |
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水谷千秋
日本古代史学者。堺女子短期大学准教授、龍谷大学非常勤講師。滋賀県生まれ。龍谷大学大学院で日野昭に学び、同博士後期課程単位取得。2002年『継体天皇と古... |
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藤原不比等
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」... |
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秦酒公
kotobank > 秦酒公とは 秦酒公 【はたの-さけのきみ】 1件の用語解説(秦酒公で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 秦酒公... |
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蘇我馬子
飛鳥時代の政治家、貴族。「馬子」であるが男性である(当時は「子」が男女問わずに用いられた)。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた... |
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法然
平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、1175年(承安5年)、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀... |
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秦大津父
kotobank > 秦大津父とは 秦大津父 【はたのおおつち】 2件の用語解説(秦大津父で検索) Tweet 朝日日本歴史人物事典 の解説 生年:生没年... |
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仁徳天皇
日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)-同87年1月16日(399年2月7日))。古事記の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御が西暦394年、仁... |
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プロフィール
弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。
概説
| 帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。 |
| 弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。 |
| しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。 |
| そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。 |
| 新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。 |
| 弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。 |
| 孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。 |
| 渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。 |
| (山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとする)その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。 |
| 『日本三代実録』元慶七年十二月(西暦884年1月)、惟宗朝臣の氏姓を賜ることとなった秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本らの奏上によると、功満王は秦始皇帝十二世孫である。 |
| (子の融通王は十三世孫に相当)。 |
考証
| 弓月君の子孫は各地の秦氏の流れへと繋がる。 |
| 離散・弱体化の進む中で、雄略天皇の御代に秦酒公が一族を再結集させ、確固たる勢力を築いたとされる。 |
| (詳細は秦氏を参照のこと)。 |
| 弓月君は朝鮮半島を経由しているものの、秦氏の系統は『新撰姓氏録』において「漢」(現在でいう漢民族)の区分であり、当時の朝鮮半島の人々である高麗(高句麗)、任那、百済、新羅とは区分を異にしている。 |
| 当時の朝鮮半島における漢人の存在と現代韓国人との関係性は未だ解明されておらず、従って、秦氏と現代韓国人とを結びつける議論にも明確な根拠があるとは言えない。 |
| ちなみに「漢」というのはあくまでも後世の分類上の表現であり、秦帝室の家系の起源は現在でいうところの漢民族の形成よりも以前のものである。 |
| (詳細は漢民族を参照のこと)。 |
| 『三国志』魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そのため辰韓(秦韓)と呼ばれるようになったという。 |
| (詳細は辰韓を参照のこと)『宋書』倭国伝では、通称「倭の五王」の一人の珍が元嘉15年(438年)「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称しており、明確に秦韓を一国として他と区別している。 |
| その後の倭王の斉、興、武の記事にも引き続き秦韓が現れる。 |
| 弓月君の帰化の伝承は、この辰韓、秦韓の歴史に関係するとも考えられている。 |
| さらに後の『隋書』においては、日本列島に「秦王国」が存在したとする記述があるが、その実態に関しては意見の分かれるところであり、結論は出されていない。 |
異説
| また一説には五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。 |
| この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。 |
| 中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という国が存在しており、そこからはるばる日本に渡ってきたという説も存在する。 |
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