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つながりの強いひと
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張遼
中国後漢末期、三国時代の武将。字は文遠(ぶんえん)。雁門郡馬邑県(現/山西省朔州市朔城区)の出身。子は張虎、孫に張統がおり、兄に張汎がいる。『三国志... |
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成丹
中国の新代の武将。緑林軍創始期からの部将で、後に更始帝政権の重鎮となった人物である。 |
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謝禄
中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は子奇。徐州東海郡臨沂県の人。新代に蜂起した農民軍の赤眉軍における有力部将の1人である。 |
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更始帝
更始帝 *1 の将軍や 宰相 はもともと 山東 *2 の出身なので、みな洛陽 *3 を首都にしようと主張した。しかし丞相 *4 長史 *5 の鄭興 *6 は反対し、こう述べた... |
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張宝
後漢末期に黄巾の乱を起こした指導者・張角の次弟。兄が黄巾の乱を起こすと弟の張梁と共にこれを補佐し、「地公将軍」と自称した。兄・張角は反乱を起こした... |
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張コウ
中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将。字は儁乂(しゅんがい)。『三国志』魏志に伝がある。冀州河間郡<spanlang="zh">&x911A;(ばく)の人。子は張... |
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陳キ
中国の卓球選手。2004年アテネオリンピック男子ダブルスの金メダリストである。江蘇省南通市出身。左利き。 |
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賈ク
後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は文和(ぶんわ)。董卓、李&x5095;、段&x7168;、張繍に仕えた後、曹操の配下となり、曹魏二代にわたり重臣として... |
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張ショク
張栻(ちょう・しょく、1133年-1180年)は中国・南宋の儒学者・政治家で朱子学の源流に位置する。字は敬夫、または楽斎。南軒先生と称せられる。 |
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張ジュ
中国清代の考証学者。字は百瀹、号は介侯。甘粛省武威県の人。嘉慶4年(1799年)に、進士に及第し嘉慶帝に仕えた。陳寿の『諸葛亮集』と裴松之註の『襄陽記』... |
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光武帝
光武帝(こうぶてい、前6年-57年)は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた... |
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耿純
耿純(こうじゅん、?-37年)は後漢の武将。字は伯山(はくざん)、鋸鹿郡宋子の人(『後漢書』列伝11・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」... |
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馬武
後漢の武将。字は子張(しちょう)。南陽郡湖陽の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の15位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 |
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陰麗華
後漢の光武帝(劉秀)の皇后で明帝の母。諡は烈(諡号としては光烈皇后)。劉秀と同じ南陽郡(河南省)出身の豪族陰氏の娘で、近隣でも評判の美女として、挙... |
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孫堅
中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんたい)。呉郡富春県の人。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。 |
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呉漢
後漢の武将。字は子顔(しがん)。南陽郡宛の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第2位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 |
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張飛
中国後漢末期から三国時代の武将。字は益徳。涿郡(現在の河北省涿県)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯。諡は桓侯。子に張苞・張紹・敬哀皇后... |
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張衡
張衡(ちょうこう、78年-139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥... |
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劉恭
中国、五胡十六国時代の前趙(当初の国号は漢)の皇族。劉淵の次子で、生母は張氏で、劉聡の同母兄。字は玄門と伝わる。 |
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王郎
中国の新代の武将、政治家。冀州趙国邯鄲県の人。新末後漢初の群雄の1人で、河北に勢力を張った人物である。本名は王昌で、王郎は別名である。しかし『後漢書... |
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プロフィール
- 張ゴウとは
- 緑林軍時代と更始帝擁立
- 兵変と更始帝殺害
- 参考文献
- 関連記事
張卬(ちょうごう、生没年不詳)は、中国の新代の武将。緑林軍の武将、のち 更始帝( 劉玄)政権の重鎮。
緑林軍時代と更始帝擁立
| →衛尉大将軍〔更始〕。 |
| 地皇3年(22年)、疫病が原因で緑林軍は分散しなければならなくなったが、張卬は、王常、成丹と共に藍口聚(南郡編県)で「下江軍」を号し張卬は、『後漢書』劉玄伝によると新市軍、同王常伝によると下江軍に合流したとされている。 |
| ただ、後者の描写は詳細であること等から、本記事では後者をとる。 |
| 、王常を下江軍の頭領に戴いた。 |
| 同年、下江軍が宜秋聚(南陽郡平氏県)に駐屯していた際に、舂陵軍の劉縯(劉秀の兄)が合流を求めて交渉にやってきた。 |
| 張卬と成丹は、劉縯の家柄を考えれば、その下風に立たざるを得ないと考え、合流に消極的であった。 |
| しかし、合流を望む王常の説得を受け、2人を始めとする他の下江軍部将はこれを承認した。 |
| 地皇4年(23年)1月、舂陵軍・下江軍の連合軍は、泚水で新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜、屬正(新制の都尉)梁丘賜を撃破し、討ち取っている。 |
| その後、緑林軍は再合流し、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを皇帝として擁立するかが、諸将の間で議論となった。 |
| この際に、南陽の士大夫(舂陵の諸将など)と王常は劉縯、その他の諸将は劉玄を推している。 |
| そして張卬は、劉玄派に与していた。 |
| 結局、劉縯が劉玄に譲る形となり、議論の最後で、張卬は抜剣して地を斬りつけ、「これ以降、この話を蒸し返すことは許さん」と言い放っている。 |
| こうして更始1年(23年)2月、劉玄は更始帝として即位し、張卬は衛尉大将軍に任命された。 |
兵変と更始帝殺害
| 新が滅亡し、更始帝が更始2年(24年)2月に長安へ遷都すると、張卬は淮陽王に封じられた。 |
| しかし、この頃から、張卬の振舞いは横暴となり、王匡と共に悪名を振りまくことになる。 |
| 翌更始3年(25年)、張卬は、王匡、成丹らと共に10数万の軍勢を率いて河東郡を守備し、劉秀の部将鄧禹を迎撃した。 |
| しかし結果は大敗に終わり、張卬らは河東を放棄して長安へ逃げ帰った。 |
| さらに赤眉軍も西進してくると、劣悪な情勢を打開するため、張卬は諸将に対して「南陽に引き返すべきだ。 |
| 敗北しても、再び緑林の生活に戻ればいい」旨を主張し、多くの将の同意を得た。 |
| こうして張卬は、王匡、廖湛、胡殷、申屠建と共に、いったん南陽へ逃れることを更始帝に進言したが、更始帝は拒否した。 |
| これに不満を抱いた張卬は、廖湛、胡殷、申屠建、隗囂と共に、更始帝へのクーデターを図ったが、更始帝はこれを事前に察知し、5人を呼び寄せて誅殺しようとする。 |
| しかし張卬ら4人は、状況の変化を悟って何とか逃走した(申屠建のみ、更始帝により誅殺)。 |
| ここで張卬は、廖湛、胡殷と共に兵変を実行し、更始帝は姻戚の将趙萌(右大司馬)が駐屯している新豊(京兆尹)へ逃げた。 |
| 張卬は、新豊から逃走してきた王匡の軍を加えたが、更始帝、趙萌、李松(更始政権の丞相)の反撃に遭い、激戦の末に敗走した。 |
| 進退窮まった張卬らは、赤眉軍に降伏してこれを長安まで導き、同年9月、長安は陥落して更始政権は滅亡した。 |
| 更始帝は赤眉軍に助命されたが、復讐を受けることを恐れた張卬は、赤眉軍の将謝禄を唆して更始帝を絞殺させている。 |
| これ以降、張卬は史書に現れない。 |
参考文献
| 『後漢書』巻1上本紀1上光武帝紀。 |
| 同巻11列伝1劉玄伝。 |
| 同巻14列伝4斉武王縯伝。 |
| 同巻15列伝5王常伝。 |
| 同巻16列伝6鄧禹伝。 |
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