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張任
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つながりの強いひと
劉璋
中国の後漢末期の群雄。劉焉の子。家系は劉氏。字は季玉。劉瑁の弟。
華雄
中国の後漢時代末期の武将。
張梁
張梁(ちょうりょう、?-184年)は張角、張宝の弟。人公将軍を自称。兄達と共に黄巾の乱を起こす。反乱軍を指揮し官軍を苦しめた。長兄の張角が病死後も軍を引...
袁紹
中国の後漢末期の武将・政治家。字は本初(ほんしょ)。豫州汝南郡汝陽県の出身。高祖父は袁安。曽祖父は袁京。祖父は袁湯。父は袁成又は袁逢。叔父に袁隗。...
孫堅
中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんたい)。呉郡富春県の人。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。
張飛
中国後漢末期から三国時代の武将。字は益徳。涿郡(現在の河北省涿県)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯。諡は桓侯。子に張苞・張紹・敬哀皇后...
法正
中国後漢末の参謀・政治家。劉備に仕えて活躍した謀臣。字は孝直。扶風郡郿(陝西省眉県)出身。後漢の南郡の太守を務めた法雄は曽祖父(又は高祖父)。祖父...
張魯
後漢末期の五斗米道(後の正一教)の指導者。字は公祺。豫州沛国豊県の人。張陵の孫、張衡の子。弟に張衛ら。子は張富ら数名と女子(曹宇妻)がいたという。...
黄忠
中国後漢末期から三国時代の将軍。字は漢升。諡は剛侯。子に黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。三軍筆頭の勇者と評された勇将である。
ホウ統
179年-214年)は、中国後漢末期に劉備に仕えた人物(龐は广=まだれに龍)。字は士元(しげん)、道号は鳳雛、謚は靖侯。「臥龍(がりゅう)」「伏龍(ふくり...
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劉表
後漢末期の政治家・儒学者。字は景升(けいしょう)。山陽郡高平県の人。前漢の景帝の第4子である魯恭王・劉余の子孫。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠し...
田豊
中国の後漢時代末期の政治家、武将。字は元皓。冀州鉅鹿郡の人とも勃海郡の人ともいう。
呉懿
中国後漢末から三国時代の武将。字は子遠。陳留郡の人。孫に呉喬を持つ。子の名は不明。後漢の何進の武将の呉匡は従父で、その子で同じ蜀漢の武将・呉班は彼...
許チョ
中国、後漢末から三国時代の武将。『三国志』魏志に伝がある。字は仲康。兄に許定、子に許儀、孫に許綜。怪力の持ち主で、曹操の親衛隊長として長く務めた。
張宝
後漢末期に黄巾の乱を起こした指導者・張角の次弟。兄が黄巾の乱を起こすと弟の張梁と共にこれを補佐し、「地公将軍」と自称した。兄・張角は反乱を起こした...
于禁
中国、後漢末から三国時代の武将。字は文則(ぶんそく)。&20823;州泰山郡鉅平県の人。子は于圭。『三国志』魏志に伝がある。
皇甫嵩
中国後漢末期の武将。字は義真(ぎしん)。安定郡朝那県出身。皇甫棱の曾孫、扶風都尉皇甫旗の孫、皇甫節の子、度遼将軍皇甫規の甥、皇甫堅・皇甫寿(もしく...
孫策
孫策(そんさく、175年–200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。
太史慈
後漢末期の武将で、後に孫策・孫権に仕えた。字は子義(しぎ)。子に太史享がいる。
孫権
後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。...
プロフィール
張任とは
石碑
演義での張任
参考文献
張任(ちょうじん、?-213年)は、後漢末期の
劉璋
配下の武将。元々は貧しい家の出だったが、文武に優れた能力を発揮し、益州の従事となる。当時隣の荊州を支配していた劉備が益州に攻め込んでくると、冷苞や鄧賢たちと共に劉備の軍を迎え撃つが、涪で打ち破られ雒(らく)城に退去した。雒城で
劉璋
の息子である
劉循
と共に篭城するが、金雁橋に出撃した際に再び劉備の軍に敗れ捕虜となる。劉備は彼の忠勇を高く評価し、何度も臣従を勧めたが、張任は「老臣は決して二君に仕えるつもりはない」と言い、決して降る事がなかった。そのため最期には首を刎ねられた。劉備は敵ながら ...
石碑
金雁橋の傍らに建てられた石碑には、張任の忠勇を称える碑文が刻まれている。
''烈士 豈に甘んじて二主に従えんや。
''張君が忠勇 死してなお生けるが如し。
''高明なること 正に天辺の月の如く。
''夜々 光を流してラク城を照らす''。
烈士たるもの どうして二君に仕えることがあるだろうか。
張任の忠勇は (張任が)死んでもまだ生きているようだ。
(張任の)高明さは まさに天の月のようで。
毎晩 光を流してラク城を照らしている 。
演義での張任
小説『三国志演義』における張任は、正史における忠義を評価されてか、
劉璋
陣営では非常に華々しい活躍をする。
劉備の入蜀の際には同僚たちと共に劉備の危険性を説き、入蜀に反対するが
劉璋
には聞き入れられない。
劉備軍の軍師である龐統が、宴会の席で
劉璋
を殺害しようと
魏延
に剣舞を舞わせた際、陰謀を察知し
劉璋
を守るため、
魏延
と共に舞うなど鴻門の会宛らの立ち回りを見せる。
劉備が益州征服の野心を露にしたとき、雒城に
立て
籠もって劉備軍を防ぎ、これを大いに苦しめている。
その際、落鳳坡(現在の四川省徳陽市)で白馬(的盧であるとは、『演義』では明言されていない)に乗った龐統を射殺するなどの活躍をする。
しかし後に、援軍に来た
諸葛亮
の計略により金雁橋に出撃したときに敗北し、囚われの身になってしまう。
その後は正史と同じく、劉備に降伏を勧められるがそれを拒否、劉備は張任を殺害するのを躊躇うが、最期は
諸葛亮
によって処刑されてしまう。
参考文献
『三国志』蜀書2先主伝。
『三国演義』。
張任 - Wikipedia
より要約
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