| 母親は身重のまま、三人の子を連れて朝鮮半島から海を越えて日本に渡り、広島で勲を生んだ。 |
| 4歳の冬、川土手で急にバックしてきたトラックを避けようと焚き火に右手を突っ込み大火傷を負う「クメピポ!絶対あいたい1001人」、毎日放送、2009年7月15日。 |
| 1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆毎日新聞、2008年8月2日、13頁。 |
| 爆風に見舞われ家は倒壊したものの、比治山の影となっていた段原は直接の熱線は届かなかったため、水を汲むために家を出た直後だった張本は無事であった。 |
| しかし勤労奉仕でこの比治山にいた長姉は、大火傷を負い翌日に亡くなった新潮45、新潮社、2009年1月号、148-154頁。 |
| 子供のときから体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。 |
| 当時の広島カープの本拠地・広島総合球場の塀を乗り越え、よく試合の無料見物をしていたという。 |
| その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった。 |
| 戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである。 |
| 以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」と言う二つの夢を胸に来る日も来る日も吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け野球へと打ち込んでいった張本の兄がタクシーの運転手だったため、使えなくなったタイヤを譲ってもらっていた。 |
| 地元の段原中学校時代にエースで4番打者として広島県大会で優勝。 |
| 段原中学出身の後輩には高津臣吾がいる。 |
| 卒業後は地元の強豪・広島商業、広陵高校-サンデーモーニングでの皆実に入りたかったと言ったのは冗談だと思う。 |
| 皆実は昔一時期、野球部があったとの話もあるが弱小で今は野球部は無いらしい。 |
| 広島皆実高校--->への入学を希望したが、素行不良との理由で叶わず。 |
| 松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制に進学。 |
| しかし昼間は暇で街へ繰り出し、匕首を懐に忍ばせ喧嘩に明け暮れる。 |
| 『仁義なき戦い』のモデルになったような人たちに憧れ、あのまま広島に居たらヤクザになっていたと思うと話している。 |
| 部内の暴力事件もあって同校を1年生の1学期で退学。 |
| 家族に懇願して広島を飛び出し、大阪府の浪華商業高等学校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)へ転校した。 |
| 1年の後半からレギュラーの座に座ると、2年時には4番・エースとなり、秋の近畿大会13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的成績を残す。 |
| 3年時の夏の甲子園直前、部内の暴力事件が発覚。 |
| 当時8人いた3年生のうち、事件において暴力を振るったのは5人。 |
| 最終的に処分を受けたのは張本1人だったが、全くの濡れ衣であった。 |
| 張本の退部と引き換えにチームの甲子園出場は認められた。 |
| この野球部員の同級生には極道画家として有名な山本集がいるVシネマにもなった山本の自伝的著書『浪商のヤマモトじゃ!』(南風社、2002年)では、張本に関する数々のエピソードが紹介されている。 |
| この年、在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜され渡韓、生まれて初めて「祖国の土」を踏む。 |
| 主軸として韓国各地を転戦、各地で大歓迎を受け、チームも14勝1敗と圧勝した。 |
| 張本のバッティングの凄さは、祖国の野球ファンの度肝を抜き、韓国メディアも大きく報道した大島裕史著『韓国野球の源流』新幹社、2006年、p154頁。 |
| ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。 |
| この時の事を後に張本は「甲子園に出場できなかったことは凄く悲しく悔しかった。 |
| でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。 |
| それが良かったんです。 |
| 生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り一からやり直すことができたんです」と語っている。 |
| この後、日本のプロ野球を代表する強打者となる張本は、母国訪問での活躍によって祖国でも有名になり、韓国の野球少年にとって憧れの存在となる。 |
| 自身の甲子園出場の夢は叶わなかったが、野球関係者の間で「東の王、西の張本」とその名が知れ渡っていた存在をプロが見逃すはずもなく、各球団からスカウトが訪れた。 |
| 兄は広島カープに入団して欲しくて知人を通じて打診したが断られサンデー毎日、毎日新聞社、1975年12月14号、153頁本人は巨人への入団を熱望していたが、叶わず。 |
| 東京への憧れもあり、同郷の先輩である岩本義行監督の東映フライヤーズに入団することとなった岩本監督が広島まで来たことに感激して入団を決意した(サンデー毎日、毎日新聞社、1975年12月14号、153頁)--->。 |