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つながりの強いひと
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当摩広麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。氏は当麻とも書く。姓は公のち真人。用明天皇の皇子である麻呂子皇子の孫とする系図がある。冠位は直大参、贈直大壱。壬申の乱... |
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高田新家
日本の飛鳥時代の人物である。姓は首。遣唐大使・高田根麻呂の子で、子に首名・石成がいたとする系図がある。位階は正六位上、贈従五位上。672年の壬申の乱の... |
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坂上老
日本の飛鳥時代の人物である。姓は直のち忌寸。冠位は贈直広壱。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側につき、大伴吹負から皇子への連絡の使者になっ... |
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用明天皇
第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日)-用明天皇2年4月9日(587年5月21日))。 |
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高市皇子
日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。旧仮名遣いでの読みは同じ。後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。672年の壬申の乱勃発時、... |
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坂本財
日本の飛鳥時代の人物である。姓は臣。坂本糠手の子とし、子に塵田(鹿田)・名代がいたとする系図がある。冠位は大錦上、贈小紫。672年の壬申の乱で大海人皇... |
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大伴御行
日本の飛鳥時代の人物である。姓は連、後に宿禰。右大臣大伴長徳の子。正広三・大納言。贈正広弐・右大臣。672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に... |
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坂上国麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。姓は直。大義冠・坂上首名の子とする系図がある。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側の高市皇子に従って都を脱した。 |
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谷根麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は直。672年の壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)側につき、河内から倭(大和)に来... |
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調淡海
日本の飛鳥時代の人物である。姓は首のち連。位階は正五位上。672年の壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)の舎人として付き従った。乱の後、『調連淡海日... |
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佐伯男
日本の飛鳥時代の人物である。姓は連のち宿禰。佐伯広足の子で、子に赤麻呂がいたとする系図がある。官位は従五位上・大倭守。672年の壬申の乱で大友皇子(弘... |
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川島皇子
7世紀後半の皇族。天智天皇の第2皇子。淡海朝臣・春原朝臣などの祖。河島皇子・川嶋皇子とも。 |
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紀大人
日本の飛鳥時代の人物である。姓(カバネ)は臣のち朝臣。紀大口の子。官位は大錦下・御史大夫、贈正三位。672年の壬申の乱のとき大友皇子(弘文天皇)側の重... |
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駒田忍人
日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「こまだのおしひと」で同じ。姓は勝。672年の壬申の乱で、都を脱出した大津皇子に同行した。駒田氏がどん... |
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徳麻呂
日本の飛鳥時代の人物である。「とくまろ」とも読む。旧仮名遣いでの読みは同じ。氏は不明。姓(カバネ)はなし。大井寺の奴で、672年の壬申の乱のとき大海人... |
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尾張大隅
日本の飛鳥時代の人物である。氏は尾治とも書く。姓は連、後に宿禰。尾張多々見の子とする系図がある。位階は贈従五位上。672年の壬申の乱のとき、大海人皇子... |
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巨勢人
日本の飛鳥時代の人物である。名は比等、毘登とも書く。姓(カバネ)は臣。小徳位巨勢大海の子。天智天皇に仕えて御史大夫に昇り、672年の壬申の乱で大友皇子... |
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当摩広島
日本の飛鳥時代の皇族である。名はたぎまとも読む。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は公。672年の壬申の乱のとき吉備国の守だったが、大友皇子(弘文... |
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長尾真墨
日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「ながをのますみ」。姓(カバネ)は直。672年の壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)側につき、河内から... |
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難波三綱
日本の飛鳥時代の人物である。姓は吉士。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側につき、都を脱出した大津皇子に同行した。 |
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プロフィール
当摩国見(たいま/たぎまのくにみ、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物。当麻国見とも書く。姓は公のち真人。系譜ははっきりしないが、 用明天皇皇子である麻呂子皇子の孫で、当摩豊浜の子とする系図がある。壬申の乱の功臣で、天武・持統・文武の三代の天皇に仕えた。また、当麻寺(奈良県葛城市)の開山に携わったと伝えられる。
経歴
| 壬申の乱時の国見の行動は『日本書紀』に見えないが、『続日本紀』の大宝元年(701年)7月21日条には、かつて功臣として100戸の封戸を与えられたことが記されており、天武方で何らかの活躍をしたことが分かる。 |
| 天武天皇13年(684年)10月に八色の姓が制定され、この際に当麻公姓を改め当麻真人姓を賜与された。 |
| 朱鳥元年(686年)9月27日、天武天皇の葬儀に際して、直大参の位にあった当摩国見は左右兵衛の事を誅した。 |
| これにより、天武朝で軍事に関わっていたことがわかる。 |
| 持統天皇10年(696年)2月28日、直広壱の位であった国見は東宮大傅に任じられたが、下僚として路跡見が春宮大夫、巨勢粟持が春宮亮に任じられている。 |
| 東宮大傅は皇太子の教育職で、この場合、軽皇子(後の文武天皇)のための人事である。 |
| 軽皇子は翌年(697年)8月1日に即位したため、この時に国見の東宮大傅の任も解かれたと思われる。 |
| 文武天皇3年(699年)10月20日、衣縫王・当麻国見・土師根麻呂・田中法麻呂が、判官4人・主典2人・大工2人を引きつれ、越智山陵を修造するために派遣された。 |
| 国見の位はこのとき直大壱であった。 |
| その後の活動は見えない。 |
年譜
| 天武天皇元年(672年)、壬申の乱にて大海人皇子方に付いて有功。 |
| 天武天皇13年(684年)10月1日、当麻公を改め当麻真人の姓を与えられた。 |
| 朱鳥元年(686年)9月27日、天武天皇の葬儀で誅する。 |
| 時に直大参。 |
| 持統天皇10年(696年)2月28日、東宮大傅になった。 |
| 時に直広壱。 |
| 文武天皇3年(699年)10月20日、越智山陵を修造するために遣わされる。 |
| 時に直大壱。 |
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