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つながりの強いひと
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亀山天皇
鎌倉時代の第90代天皇(在位:正元元年11月26日(1259年1月9日)-文永11年1月26日(1274年3月6日))。諱は恒仁(つねひと)。 |
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後深草天皇
鎌倉時代の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日)-正元元年11月26日(1259年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 |
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四条天皇
鎌倉時代の第87代天皇(在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日)-仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。 |
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後伏見天皇
鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)-正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 |
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後醍醐天皇
第96代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日)-延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。諱は尊治(たかはる)。 |
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土御門天皇
土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年12月2日(1196年1月3日)-寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日(1198... |
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大覚
南北朝時代の日蓮宗の僧。名は妙実。近衛家の出と言われ、初めは真言宗の僧であった。1313年(正和2年)京都布教中の日像の説法に共感し、宗派を改め弟子とな... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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伏見天皇
伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日)-文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27... |
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西園寺公経
鎌倉時代の公卿・歌人。内大臣藤原実宗の子。西園寺家の実質的な祖とされている。従一位・太政大臣。一条入道太相国、西園寺を号す。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経... |
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後宇多天皇
鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日)-弘安10年10月21日(1287年11月27日))。諱は世仁(よひと)。 |
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後鳥羽天皇
平安末期から鎌倉初期の第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日)-建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら)。 |
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宗尊親王
鎌倉幕府6代将軍で皇族での初めての征夷大将軍。後嵯峨天皇の皇子。母は蔵人木工頭平棟基の娘・棟子。後深草天皇、亀山天皇らの異母兄。正室は近衛宰子、子に... |
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後堀河天皇
鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日)-貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。 |
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花園天皇
花園天皇(はなぞのてんのう、永仁5年7月25日(1297年8月14日)-貞和4年/正平3年11月11日(1348年12月2日))は鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16... |
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順徳天皇
鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日)-承久3年4月20日(1221年5月13日))。諱は守成(もりなり)。 |
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高倉天皇
平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年3月30日)-治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 |
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建武
後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年-56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。この元号は、漢王朝を再興した際に初め... |
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後二条天皇
鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年1月21日(1301年3月2日)-徳治3年8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。 |
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源通子
母
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プロフィール
- 後嵯峨天皇とは
- 系譜
- 略歴
- 諡号・追号・異名
- 在位中の元号
- 陵墓・霊廟
後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日)-文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日)-寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。
系譜
| 母は、土御門通宗の娘、源通子。 |
| 主な妃、皇子女。 |
| 中宮:藤原(西園寺)姞子(大宮院)(1225-1292)-西園寺実氏女。 |
| 姞= |
| 久仁親王(後深草天皇)(1243-1304)。 |
| 綜子内親王(月華門院)(1247-1269)。 |
| 恒仁親王(亀山天皇)(1249-1305)。 |
| 雅尊親王(1254-1256)。 |
| 貞良親王(1256-1260)。 |
| 皇女(1260-?)-夭逝か。 |
| 女院:體子内親王(神仙門院)(1231-1301)-後堀河天皇皇女。 |
| 宮人:藤原(西園寺)公子(大納言三位局)-西園寺公経女、中宮姞子の叔母。 |
| 慈助法親王(1254-1295)-天台座主。 |
| 悦子内親王(延政門院)(1260-1332)。 |
| 典侍(准三后):平棟子(大納言二位局)-平棟基女。 |
| 宗尊親王(1242-1274)-鎌倉幕府第6代将軍。 |
| 掌侍:藤原博子(勾当内侍・後坊門局)-藤原孝時女。 |
| 覚助法親王(1247-1336)-四天王寺別当・園城寺長吏。 |
| 懌子内親王(五条院)(1262-1294)。 |
| 皇女(柳殿)(?-?)。 |
| 宮人:藤原氏(按察三位局)-四条隆衡女。 |
| 最助法親王(1253-1293)-天台座主。 |
| 宮人:藤原氏(御匣殿)(?-1247)-三条公房女。 |
| 忠助法親王(?-1290)-園城寺長吏・聖護院。 |
| 性助法親王(1247-1282)-仁和寺。 |
| 宮人:藤原氏-姉小路実世女。 |
| 浄助法親王(1253-1280)-円満院。 |
| 宮人:藤原氏(右衛門督局)-一条能保女。 |
| 円助法親王(1236-1282)-円満院。 |
| 宮人:藤原氏(二条局)-大友親秀女(一説に藤原俊盛女)。 |
| 愷子内親王(1249-1284)-伊勢斎宮。 |
| 宮人:藤原氏(一条殿局)-法眼証円女(一説に藤原兼房女)。 |
| 仁恵法親王(1244-1298)-法住寺。 |
| 宮人:源氏(大納言局)-中院通方女。 |
| 皇子(1243、即日没)。 |
| 宮人:藤原氏-九条良平女。 |
| 宮人:源氏-源頼政曾孫。 |
| 勝助(?-?)-仁和寺。 |
| 宮人:藤原氏某。 |
| 高峰顕日(1241-1316)-建長寺。 |
略歴
| 土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である中院通方・土御門定通の許で育った。 |
| だが、土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていた。 |
| ところが仁治3年(1242年)に四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。 |
| 公卿や幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。 |
| 九条道家ら公卿勢力は、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとした。 |
| しかし執権北条泰時および現地六波羅探題の北条重時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の側室は重時の同母妹(竹殿)であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。 |
| この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。 |
| また、当時の貴族の日記である『平戸記』・『民経記』が邦仁王擁立を非難する記述(ともに仁治3年正月19日条)を残すなど、当時の貴族社会に衝撃を与えた。 |
| 即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り、寛元4年(1246年)に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。 |
| この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。 |
| 以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用されて院政が展開されていくことになる。 |
| 正元元年(1259年)には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促した。 |
| 後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。 |
| ただし、宝治元年(1247年)の宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が「公家御事、殊可被奉尊敬由」(『吾妻鏡』宝治元年6月26日条)とする合意を行って、後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。 |
| また、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意する(宮将軍)など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった。 |
| 文永5年(1268年)10月に出家して法皇となり、大覚寺に移る。 |
| 同9年(1272年)2月、崩御。 |
| 後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にした事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く大乱の源となった。 |
| 吉川英治は『私本太平記』中で「天子の座は象徴で、治天の君たる上皇、法皇にこそ実権がある、というのは既に常識であった。 |
| この無理な処置は少しでも長く院政の権栄を享受したいがためであろう。 |
| 」と考察している。 |
| 一方井沢元彦は『逆説の日本史』中で両統迭立のきっかけを作った後嵯峨上皇を「歴代天皇における最大の愚行」と非難している。 |
諡号・追号・異名
| 嵯峨に亀山殿を営み、同所において出家、崩御している。 |
| 遺諡によって後嵯峨院の追号を定めたという。 |
在位中の元号
| 仁治(1242年1月9日)-1243年2月26日。 |
| 寛元1243年2月26日-(1246年1月19日)。 |
陵墓・霊廟
| 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町の嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)に葬られた。 |
| 亀山天皇と兆域を同じくし、同形式の檜皮葺で、宝形造の法華堂が並ぶ。 |
| 嵯峨天皇は文永9年2月19日、薬草院で火葬され、翌日、遺骨を銀の壷に納めて浄金剛院に安置し、文永11年、法華堂の落慶のとき同堂に移し納めた。 |
| 中世、山陵の所在が不明に帰した。 |
| 『元禄諸陵周垣成就記』は陵の所在は金原法華堂として火葬冢を嵯峨二尊院裏山という。 |
| 松崎祐之『歴史徴』は天龍寺内方丈西北の古墳という。 |
| 『山陵志』は亀山天皇と合葬で故浄金剛院の法華堂とする。 |
| 『山陵私記』はのちの火葬所を陵に擬する。 |
| 『陵墓一隅抄』は初めて、天龍寺方丈北雲居庵の四辺と、のちの陵の位置を指摘する。 |
| 谷森善臣『山陵考』は同地を擬して、幕末の修陵のとき、同地に治定され、元治元年11月、起工され、慶応元年5月6日、竣工に際して山陵修補竣工巡検使野々宮中納言が遣され、奉幣があった。 |
| 亀山天皇陵とともに浄金剛院法華堂といい、のち亀山天皇の亀山殿法華堂に対して嵯峨殿法華堂と称され、明治39年3月、嵯峨陵と号され、明治45年3月、嵯峨南陵と改称された。 |
| 火葬所は天龍寺裏山に、後伏見天皇および亀山天皇とともに、同域内にある。 |
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1242年
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四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問... |
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1246年
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在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲... |
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