| 卒業記録は遺されていない。 |
| 同年、父・後藤昌文が東京市第四大区二小区神田猿楽町2丁目19番地に、癩専門の「起廃病院」を開院、ハンセン病患者の治療と共に門人教育を行った。 |
| 後藤昌直は京都府癩病院に招かれ、松原通大宮中道寺の癩病院でハンセン病患者の診療にあたった。 |
| 後藤父子は当時の癩治療の権威となった。 |
| 治療は大風子油の丸薬の服用、大風子実の絞り糟などの薬湯、栃の実の使用、温浴療法である。 |
| 、「起廃病院醫亊雑誌」を発刊。 |
| 漢訳も行われた。 |
| 3月、来日中のハワイ王カラカウアが起廃病院を訪問。 |
| ハワイでは1840年頃から癩が広まり1866年からモロカイ島で隔離収容していた。 |
| 、「難病自療」を著す。 |
| これは後藤式療法でハンセン病が治りえることを口語でわかりやすく患者向けに説いた書物である。 |
| ハンセン病の感染の可能性に言及し、発病には遺伝・自発・感染の三つの場合があり、潜伏期間が長いため感染であったとしても、それを特定することはできないと述べた。 |
| 当時隔離政策が主であったハンセン病を、外来・通院治療で治癒に導いていたことは日本のハンセン病の歴史上特記すべき事項である。 |
| 後藤式療法は、大風子油・七葉樹皮・甘草の丸薬の服用、大風子実の絞り糟などの薬湯、温浴療法である。 |
| 完治した患者もおり、ハンセン病は当時不治の病であったことから、高名を博した。 |
| 、起廃病院は芝新堀町に移転。 |
| 同年浅草旅籠町に後藤薬舗を開き製薬も行い、ハワイ他海外にも輸出した。 |
| 同年、ハワイの富豪患者、GilbertWallerがモロカイ島への隔離を避けるため来日し起廃病院で治療を受け、治癒し帰国。 |
| 、前述のGilberWallerが快癒し帰国。 |
| Wallerは、「後藤医師の有する知識と経験は、千年に渡る日本・中国漢方医の研究結果であり、何百名もの患者が治癒に至った("TheknowledgeandexperiencepossessedbytheGotos,wastheresultofthestudyofJapaneseandChinisePhysiciansforoverathousandyears")」と報告し、ハワイ衛生局に治療法を試すように強く勧めた。 |
| このため同年末、ハワイ王の招聘により後藤昌直はハワイに渡航し、ハワイのハンセン病患者の治療にあたった |
| この際、ハンセン病の守護聖人であるダミアン神父の治療にもあたり、ダミアン神父のハンセン病は一旦軽快した |
| ダミアン神父は後藤昌直医師を深く信頼しており、「私は欧米の医師を全く信用していない。 |
| 後藤医師に治療して貰いたいのだ」との言葉を残している("IhavenottheslightestconfidenceinourAmericanandEuropeandoctorstostaymyleprosy,IwishtobetreatedbyDr.MasanaoGoto.") |
| ダミアン神父の最後のホノルル渡航は、後藤昌直の治療を受けるための1886年7月10日であったとの記録が残っている。 |
| NewYorkTimesに掲載されたダミアン神父の追悼記事にも、後藤昌直の治療が記載されている |
| 、スケートリンクで上腕骨を骨折したがDr.McGrewが治療にあたり、治癒した、という記事がAdvertiser誌12月15日号に掲載されている。 |
| 、ハワイを去り、米国のCooperMedicalCollege(スタンフォード大学の前身)に留学。 |
| "Leprosy"という卒業論文(graduationthesis)を提出した記録がある。 |
| 、北里柴三郎とハンセン病の共同研究を開始。 |
| 同年1月26日、Kalaupapaのハワイハンセン病患者の強い要望があり、ハワイ王国政府の招聘に応じ再度ハワイに出発。 |
| 2月14日に横浜より三池丸に乗船(2月9日国民新聞)。 |
| 3月にハワイに到着。 |
| 後藤式療法による治療を行った。 |
| 年俸3600ドルであった。 |
| この功績によりハワイ王より叙勲を受けた。 |
| 4月30日、父・後藤昌文の病状悪化によりハワイを発ち日本に帰国した。 |
| 帰国後も日本のハンセン病患者の治療に尽力した。 |
| 、東京市会議員総選挙麻布区選挙に立候補するも落選。 |
| 7月9日、東京で没した。 |
| 東京都品川区南品川の海晏寺に墓石あり。 |