| 大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトら英国ヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった |
| 蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった。 |
| これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。 |
| 蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』 |
| 彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。 |
| 蘇峰は1886年の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった板垣退助を訪ねている。 |
| 原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている |
| 高野(2005)。 |
| 同書は蘇峰の上京後に田口卯吉の経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした久恒(2011)p.27。 |
| これが蘇峰の出世作となった。 |
| 1887年(明治20年)2月には東京赤坂榎坂に姉初子の夫湯浅治郎の協力を得て言論団体民友社を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰した。 |
| 『国民之友』の名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネーション』から採用したものだといわれている |
| 民友社には弟の徳冨蘆花はじめ山路愛山・竹越与三郎・国木田独歩らが入社した。 |
| 『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、三宅雪嶺・志賀重昂・陸羯南ら政教社の掲げる国粋主義(国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、1888年(明治21年)から翌1889年(明治22年)にかけては、大同団結運動支援の論陣を張った。 |
| また、平民叢書第6巻として『現時之社会主義』ウイリアム・グラハムの『新旧社会主義』やジョン・レーの『現時の社会主義』によりながら社会主義原論・歴史を体系的に叙述し、社会主義入門書として当時の青年に影響を与えた。 |
| 海野(1992)pp.262-263を1893年(明治26年)に発刊するなど社会主義思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった隅谷(1974)p.173。 |
| その一方で蘇峰は1888年、森田思軒・朝比奈知泉とともに「文学会」の発会を主唱した。 |
| 「文学会」は毎月第2土曜日に開かれ、気鋭の文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後、1人ないし2人が文学について語り、また、参加者全員で雑談するという会合で、坪内逍遥や森鷗外、幸田露伴などが参加した |
| 1890年(明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたってオピニオンリーダーとして活躍することとなった。 |
| さらに蘇峰は、1891年(明治24年)5月には『国民叢書』、1892年(明治25年)9月には『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東』''TheFarEast'')を、それぞれ発行している。 |
| このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた。 |
| 『蘇峰自伝』によれば蘇峰は、『。 |
| 國民新聞』発刊にあたって、。 |
| 当時予の最も熱心であったのは、第一、政治の改良。 |
| 第二、社会の改良。 |
| 第三、文芸の改良。 |
| 第四、宗教の改良であった。 |
| と記している。 |
| 蘇峰は1891年10月、『国民之友』誌上に「書を読む遊民」を発表している。 |
| そこで蘇峰は、中学校(旧制)に進学せず、地方の町村役場で吏員となっている若者や小学校の授業生(授業担当無資格教員)となっている地方青年に、専門的な実業教育を施して生産活動に参画せしむるべきことを主張している多仁(1989)pp.54-55。 |
| 200px|left|thumb|『大日本膨張論』(一部)。 |
| いっぽうでは1889年1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、1894年(明治27年)、対外硬六派に接近して第2次伊藤内閣を攻撃し1894年3月28日には、硬六派を支持する反政府系、反自由党系の新聞記者たちは、尾崎行雄、肥塚龍、末広鉄腸、鈴木天眼、陸実、川村惇、徳富蘇峰を中核として「新聞の同盟」を結成することを約している。 |
| 佐々木(1999)p.194、日清戦争に際しては、内村鑑三の''"JustificationofKoreanWar"''を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。 |
| 蘇峰は、日清開戦におよび、7月の『国民之友』誌上に「絶好の機会が到来した」と書いた(「好機」)。 |
| それは、今が、300年来つづいてきた「収縮的日本」が「膨張的日本」へと転換する絶好の機会だということである大日方(1989)p.284。 |
| 蘇峰は戦況を詳細に報道、自ら広島の大本営に赴き、現地に従軍記者を派遣した国木田独歩は、国民新聞記者として軍艦千代田に搭乗して威海衛攻撃に従軍した。 |
| さらに蘇峰は、川上操六参謀次長、樺山資紀軍令部長らに対しても密着取材を敢行している。 |
| 同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した『大日本膨張論』を刊行した |