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つながりの強いひと
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南方熊楠
日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。菌類学者としては粘菌の研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡... |
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徳川頼貞
東京府出身の音楽学者、政治家、侯爵。楽譜や音楽文献、古楽器類の収集家として知られた。母方の祖父徳川茂承は紀州藩主。妻の為子は公爵島津忠義の十女。香... |
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華族
1869年から1947年まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、国家... |
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徳川家達
徳川宗家16代当主、もと田安徳川家7代当主。駿府藩初代藩主。幼名は亀之助。号は静岳。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。第4代貴族院議長、ワシントン軍縮会... |
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徳川達孝
兄
明治期から昭和にかけての宮中官僚・政治家。爵位は伯爵。田安家第9代当主。父は田安徳川家第5・8代当主の徳川慶頼(四男)。兄に徳川宗家を継承した徳川家達... |
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徳川頼宣
徳川家康の十男で、常陸国水戸藩、駿河国駿府藩、紀伊国和歌山藩の藩主を歴任して紀州徳川家の祖となる。母は側室の養珠院(お万の方)である。八代将軍徳川... |
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紀州藩
江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山... |
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徳川茂承
江戸時代末期の大名。紀州藩第14代(最後)の藩主。伊予国西条藩主・松平頼学の六男(七男との説もある)。初名は頼久。 |
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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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徳川頼職
江戸時代の大名。紀伊国紀州藩第4代藩主。 |
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徳川慶頼
父
江戸時代の田安徳川家の第5代・8代当主。異母兄に越前藩主松平慶永(春嶽)など。 |
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徳川慶喜
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年‐1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職... |
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市島春城
市島春城 (いちしましゅんじょう) | 1860~1944 略歴・解説 政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。本名謙吉。ジャナーリスト、衆議院議員、早稲田大学図... |
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徳川家正
日本の外交官・政治家。徳川宗家第17代当主。第16代当主徳川家達の長男。新字体で徳川家正とも表記される。 |
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牧野伸顕
日本の政治家。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。名はシンケンと通称されることもある(有職読み)。以前の諱は是利。 |
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徳川頼房
江戸時代初期の大名。常陸水戸藩初代藩主、水戸徳川家の祖。徳川家康の11男。 |
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徳川寿千代
江戸時代の御三卿の一つ、田安徳川家の第6代当主。父は第5・8代当主の徳川慶頼、母は側室の高井氏。 |
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近衛忠房
幕末期の公卿。近衛忠熙の四男。母は島津斉興の養女・興子とされているが、庶子との説もある。正室は島津斉彬の養女・貞姫。子に篤麿(長男)、英麿(次男、... |
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紀州徳川家
江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。紀伊徳川家とも称され、単に紀州家、紀伊家ともいう。また、初代頼宣が常陸国に封... |
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松平康昌
昭和期の日本の華族、官僚。旧福井藩主家(越前松平家)第19代当主。従二位勲一等侯爵。相模女子大学短期大学部の校長を務めた。夫人は徳川家達二女の綾子。 |
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プロフィール
- 徳川頼倫とは
- 生涯
- 人物
- 栄典
- 系譜
- 参考文献
- 関連サイト
德川賴倫(とくがわよりみち、明治5年6月23日(1872年7月28日)-大正14年( 1925年)5月19日)は、日本の政治家、実業家。 紀州徳川家第15代当主。位階は正二位。勲等は勲一等。 爵位は侯爵。名は「らいりん」と有職読みすることもある。新字体での表記は徳川頼倫。貴族院議員、貴族院仮議長(2回)、宗秩寮総裁、南葵文庫総裁、南葵育英会総裁、日本図書館協会総裁、史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、十五銀行取締役、日本赤十字社常議員、 華族会館評議員、帝国海事協会評議員などを歴任した。
生涯
| 明治5年(1872年)6月23日、田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の六男として東京府下本所横網町(現在の東京都墨田区横網一丁目)の田安邸で生まれる。 |
| 生母は沢井八重子上田貞次郎『上田貞次郎日記(壮年編)』 上田貞次郎日記刊行会、1964年。 |
| 明治13年(1880年)2月2日、紀州徳川家第14代当主・徳川茂承の養子になり頼倫と改名した。 |
| 明治18年(1885年)に学習院に入学したが、成績不振により学習院中等学科を中退し、山井幹六の養成塾に入った。 |
| また、三宅米吉や津田梅子、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・S・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修めている。 |
| 鎌田栄吉によると、養子となった頼倫の不成績を快く思わない旧紀州藩士が多く、頼倫自身も陰気になっていたという。 |
| 明治23年(1890年)9月14日に養父の長女である久子と婚姻する。 |
| 明治29年(1896年)、イギリスのケンブリッジ大学に留学して政治学を専攻。 |
| 留学中には南方熊楠の案内で大英博物館を見学したり、熊楠を介して孫文と出会ったりしている津本陽『巨人伝』に詳しい。 |
| 明治31年(1898年)に2年間の留学と欧州視察を終えて帰国。 |
| 明治35年(1902年)4月に東京市麻布区飯倉町六丁目14番地(現在の東京都港区麻布台一丁目)の邸内に南葵文庫を設立。 |
| 明治39年(1906年)8月21日に家督を相続し、9月7日に襲爵して貴族院議員となる。 |
| 明治44年(1911年)に数十万円の基金を拠出して南葵育英会を設立し、和歌山県出身の就学困難者に奨学金の貸与や学生寮の提供などを行う一方、南葵育英会の賛助者を募るため、和歌山県をはじめとして全国各地の行脚を試みた。 |
| 大正2年(1913年)6月15日、市島謙吉や和田万吉の要請で日本図書館協会総裁に就任する。 |
| 大正10年(1921年)に内閣総理大臣・高橋是清が内閣改造を模索していた頃、頼倫は研究会と立憲政友会の仲介人として注目され、実現のために坐漁荘の元老・西園寺公望を訪ねたが、政友会内部の対立により内閣改造は沙汰止みとなった。 |
| 大正11年(1922年)6月3日、宗秩寮総裁に就任し、在任中は宮中某重大事件直後に起こった朝融王の婚約破棄事件の処理に尽力した。 |
| 大正13年(1924年)8月に狭心症の発作で失神したこともあり、大正14年(1925年)1月18日から和歌山県の和歌浦や湯崎温泉で療養を行った。 |
| 同年3月31日に帰京し、快癒後は毎日宮内省に出勤するようになり、5月18日も徳川家理事会を欠席して出勤した。 |
| 同日19時に東京駅で侯爵李鍝を見送り、22時に豊多摩郡代々幡町代々木上原1177番地(現在の渋谷区上原)の本邸に帰宅。 |
| その直後、顔面蒼白となり苦痛を訴えたため医師が応急処置を施したが、翌5月19日午前0時10分に死去。 |
| 同日付で勲一等瑞宝章を受章し、特旨により正二位に叙された。 |
| 遺体は特別列車で菩提寺の長保寺へ移送され、同年6月3日に埋棺式が行われた。 |
| 戒名は樹徳院殿□城高節大居士。 |
| 家督は長男の頼貞が継いだ。 |
人物
| 乗馬や剣道、柔道に通じる一方で、書籍を愛して南葵文庫を設立し、欧州視察で感銘を受けた公共図書館思想の普及に日本図書館協会総裁として尽力するなどした。 |
| 尊皇の念が強く、渋沢栄一の推挙で聖徳太子奉賛会会長を務めるなど聖徳太子の顕彰事業にも参加している。 |
| 留学中に見聞した欧州の貴族の文化活動に感銘を受けたことにより、帰国後は華族として日本の文化活動を積極的に推進し、東京地学協会会長、海軍協会会長、日本弘道会副会長、明治神宮奉賛会幹事などを務めている。 |
| 明治39年(1906年)に養父茂承の百箇日迫善として慶應義塾図書館へ1万円を寄付するなど学校の発展にも努めた。 |
| 兄の徳川達孝や田中芳男、三宅秀ら有志とともに民間での文化財保護運動を推進し、明治44年(1911年)12月には自ら中心となって史蹟名勝天然紀念物保存協会を設立して会長に就任。 |
| 大正8年(1919年)の史蹟名勝天然紀念物保存法の制定に貢献した。 |
| また、平城宮跡の保存運動を推進した奈良大極殿址保存会の会長にも就任している。 |
| 留学中に親交を深めた南方熊楠が南方植物研究所の設立資金を集めるために上京してきた大正11年(1922年)には、原敬や大隈重信、幸田露伴らとともに設立発起人に名を連ねて1万円を提供している。 |
| また、大正3年(1914年)と大正10年(1921年)には和歌山県西牟婁郡田辺町(現在の和歌山県田辺市)の熊楠邸を訪問している。 |
栄典
| 明治22年(1889年)12月24日:正五位。 |
| 明治31年(1898年)6月20日:従四位。 |
| 明治36年(1903年)6月30日:正四位。 |
| 明治40年(1907年)6月20日:勲一等太極章(高宗より受領)。 |
| 明治40年(1907年)7月15日:勲一等太極章の佩用許可。 |
| 明治42年(1909年)7月10日:従三位。 |
| 大正5年(1916年)4月1日:勲四等瑞宝章。 |
| 大正5年(1916年)7月20日:正三位。 |
| 大正8年(1919年)2月11日:勲三等旭日中綬章。 |
| 大正13年(1924年)8月1日:従二位。 |
| 大正14年(1925年)5月19日:正二位勲一等瑞宝章。 |
参考文献
| 稲村徹元編『大正過去帳―物故人名辞典』 東京美術、1973年。 |
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1872年
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田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の六男として... |
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1885年
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学習院に入学したが、成績不振により学習院中... |
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