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元宗
元宗(げんそう、1219年-1274年)は第24代高麗王(在位:1259年-1274年)。太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになる... |
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忠宣王
忠宣王(ちゅうせんおう、1275年-1325年、在位1298年、1308年-1313年)は高麗の26代目国王。第25代国王忠烈王と荘穆王后(、クビライの娘)との間の長子と... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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恭愍王
恭愍王(きょうびんおう、1330年-1374年在位:1351年-1374年)は第31代の高麗王。忠粛王の子。姓は王、名は祺。蒙古名は伯顔帖木児。諡号は恭愍仁文義武勇智... |
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世祖
世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日)-成化4年9月8日(1468年9月24日)、在位:1455年閏6月11日-1468年9月7日)は李氏朝鮮の第7代国王。... |
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康宗
康宗(こうそう、1152年-1213年)は第22代高麗王(在位:1211年-1213年)。諡号は浚哲文烈亶聰明憲貽謀穆清元孝大王、姓は王、諱は。別名、王璹、王貞。明宗... |
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靖宗
靖宗(せいそう、1018年-1046年)は第10代高麗王(在位:1035年-1046年)。諡号は弘孝安懿康献英烈文敬容恵大王、姓は王、諱は亨。顕宗と元成太后金氏の二番... |
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忠穆王
忠穆王(ちゅうもくおう、1337年-1348年)は第29代高麗王(在位:1344年-1348年)。姓は王、名は昕。蒙古名は八思麻朶児只。諡号は忠穆顕孝大王。忠恵王の嫡... |
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忠定王
忠定王(ちゅうていおう、1338年-1351年)は高麗第30代国王(在位:1349年-1351年)。姓は王、名は駙または。モンゴル名は迷思監朶児只。忠恵王の庶子。母は... |
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忠粛王
第27代高麗王(在位1313年-1330年、1332年-1339年)。姓は王、名は燾。小字は宜孝。第26代国王忠宣王の次男で、母はモンゴル人の也速真。妃はモンゴルの皇族... |
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忠恵王
忠恵王 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/03/31 23:32 UTC 版) 忠惠王 (ちゅうけいおう、 1309年 - 1344年 )は第28代 高麗 王(... |
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一然
高麗時代の禅宗の仏僧。俗姓は金、幼名を見明(または景明)、字は晦然。慶州章山郡(現在は慶山市)の出身で、1283年に忠烈王より国尊の称号を賜り、円径冲... |
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恭譲王
高麗の第34代国王である。第20代神宗の7代孫。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂(李氏朝鮮の太祖)により高麗王として擁立された。後に李成桂に譲... |
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正祖
正祖(チョンジョ、せいそ、英祖28年9月22日(1752年10月28日)-正祖24年6月28日(1800年8月18日))は李氏朝鮮の第22代国王。祖父は英祖(ヨンジョ、えいそ... |
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仁祖
仁祖(インジョ、じんそ、万暦23年11月7日(1595年12月7日)-順治6年5月8日(1649年6月17日)、在位:1623年3月13日-1649年5月8日)は李氏朝鮮時代の第16代国... |
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燕山君
燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、成化12年10月7日(1476年10月24日)-正徳元年11月6日(1506年11月20日)、在位:1494年12月29日-1506年9月2日)は李氏... |
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純祖
李氏朝鮮時代の第23代国王(在位:1800年-1834年)。諱は。字は公宝(こうほう、、コンボ)。号は純斎(じゅんさい、、スンジェ)。諡は「宣恪淵徳顕道景仁純... |
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成宗
李氏朝鮮の第9代国王(在位:1469年-1494年)。姓は李、名は。諡は康靖仁文憲武欽聖恭孝大王。君号は者山君、のち乽山君。第7代国王世祖の第1王子李暲(徳宗... |
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毅宗
毅宗(きそう)は西夏の第2代皇帝。父親が殺害されて1歳で即位。そのため母親の没蔵太后と実家の一族によって専横される。即位翌年の1048年に景宗の喪中を狙... |
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光海君
李氏朝鮮の第15代国王(在位:1608年-1623年)。名は琿。なお第10代国王燕山君同様暴君として廃位された王であるため、廟号、尊号、諡号、陵名はない。 |
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プロフィール
- 忠烈王とは
- 略歴と関連年表
- 関連項目等
- 参考文献
- 関連サイト
忠烈王(ちゅうれつおう、1236年-1308年)は第25代高麗王(在位1274年-1298年、復位1298年-1308年)。姓名は王椹、第24代高麗 王元宗の子。諡は忠烈景孝大王、諱は王賰、別名は王椹。1260年に世大子となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を得て、 クビライの公主 忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後に再び帰国し、王位についた。文永の役・弘安の役においては元に日本侵攻を執拗に進言し、兵力と経費を提供するとともに毎年元に莫大な貢物、奴隷等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊 ...
略歴と関連年表
| 1236年第24代高麗王元宗と枢密副使の間の長子として生まれる。 |
| 1256年11月宗室始安公絪の娘を妃とする(貞信府主)。 |
| 婚姻の年月は不明だが、この外に金良鑑の娘を淑昌院妃として妃としている。 |
| 1259年高麗崔氏政権は打倒され、元に服属。 |
| 元宗の子(後の忠烈王)元の首都大都(北京)へ。 |
| 禿魯花ではないが、実質の人質。 |
| 禿魯花とは元の言葉で人質のことを言う。 |
| 忠烈王以降の世子は禿魯花となって元の大都に行くのが通例となった。 |
| 1260年世太子となる。 |
| 1270年高麗、慈悲嶺以北の広大な東寧路を奪われる。 |
| 1271年6月クビライの皇女忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)と婚姻の許諾を得る(元宗15年)。 |
| 1272年廃位となるも元の力により復位。 |
| 日本侵略を提言「高麗史」十五(ソウル大学)世家二十七高麗史二十七元宗三元宗十三年(1272)三月の条世子'諶(後の忠烈王)云'の箇所『惟彼日本未蒙聖化故発詔。 |
| 使継糴軍容戦艦兵糧方在所須。 |
| 儻以此事委臣勉尽心力小助王師』。 |
| 惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。 |
| 故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。 |
| もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん。 |
| 高麗に帰国「高麗史」十五(ソウル大学)世家二十七高麗史二十七元宗三元宗十三年(1272)三月の条『世子知之不得已請于帝国人見世子辯髮胡服皆歎息至有泣者』。 |
| 1273年三別抄の乱を元の力で鎮圧。 |
| 元日本侵略のため(元寇)行中書省をおき、高麗、戦艦大小九百艘を造船する。 |
| 若依蛮様則工費多将不及期用本国船様督造。 |
| 8月王位に就く。 |
| 10月文永の役。 |
| 1275年耽羅国に耽羅国軍民都達魯花赤(daruγači)総管が置かれる。 |
| 1276年通文館40歲未満の禁内学官(禁内の秘書·史館·翰林などの文官)に漢語敎育を行なう他翻訳を司る部門。 |
| 太祖2年(1393年)にはそれが司訳院と改称されるを置く。 |
| 1278年弁髮・胡服令忠烈王四年二月令境内皆服上國衣冠開剃。 |
| 蒙古俗剃頂至額。 |
| 方其形留髮其中。 |
| を下す。 |
| 1280年日本に対する遠征(元寇)を遂行する目的で征東行省(忠烈王が長官となる)を創設。 |
| 1281年弘安の役。 |
| 征東行省を解散。 |
| 1289年哈丹(カダアン)1287年から1292年にかけて現在の中国東北部から高麗全域を巻き込んだ内乱事件である、いわゆるナヤン・カダアンの乱のうち、叛乱後期に抵抗を続けたカチウン家の王族カダアンのこと。 |
| 1287年にチンギス・カン諸弟家である東方三王家の首班テムゲ・オッチギン家の当主ナヤンがクビライ政権に対し東方三王家の王族たちを率いて叛乱を起こしたが、クビライの親征軍によって鎮圧された。 |
| しかし、クビライの東方三王家に対する戦後処理に不服をもったカチウン家の長老カダアンは息子のラオデイとともに東北部の諸地域を転戦してなおも抵抗を続けた。 |
| 1290年代には高麗東部の諸城を占拠するに至ったが、1292年に増派された皇孫テムルの軍や高麗王国の連合軍による迎撃を受けて鴨緑江の上流部で敗死した。 |
| (杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下) 世界経営の時代』講談社現代新書1307、1996年6月20日、p.152-160)(契丹)の寇により都を江華島に移す。 |
| 忠烈王十六年避哈丹兵于此十八年復還松京以本。 |
| 1291年都を開城に戻す。 |
| : 契丹の侵入。 |
| 1294年廃位となるも元の力により復位。 |
関連項目等
| 高麗王高麗王の系図と一覧。 |
| 高麗王后高麗王妃王后の一覧、出目。 |
| 高麗年表高麗の年表。 |
参考文献
| 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下) 世界経営の時代』講談社現代新書1307、1996年6月20日。 |
| 武田幸男編訳『高麗史日本伝-朝鮮正史日本伝-』全二冊、岩波文庫、2005年5月17日。 |
| 森平雅彦「元朝ケシク制度と高麗王家―高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して」『史学雑誌』110-2、2001年2月、史学会。 |
| 森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年。 |
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1260年
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世大子となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を... |
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1298年
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復位1298年1308年) |
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