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愛知和男
日本の政治家。旧姓中田。愛知揆一の女婿。衆議院議員を通算9期務め、環境庁長官、防衛庁長官などを歴任した。 |
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愛知治郎
日本の政治家。参議院議員(現在2期目)。 |
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田中角栄
日本の政治家。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。 |
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佐藤栄作
日本の鉄道官僚、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。報道などでは新字体で佐藤栄作(さとうえいさく)と表記される場合も多い。内閣官房長官(第4代)、衆... |
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愛知敬一
愛知敬一(あいちけいいち、1880年7月25日-1923年6月23日)は日本の物理学者。東北帝国大学理科大学物理学科教授を務めた。 |
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大平正芳
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(... |
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橋本登美三郎
茨城県行方郡潮来町(現・潮来市)出身の政治家。自由民主党衆議院議員。自民党幹事長、建設大臣、運輸大臣などを務めた。 |
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池田勇人
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議... |
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保利茂
日本の政治家、内閣官房長官、第59代衆議院議長、労働大臣、農林大臣などを歴任。 |
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三木武夫
日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員(19期)、逓信大臣(第52代)、運輸大臣(第17・18代)、経済企画庁長官(第6代)、科学技術庁長官(... |
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岸信介
日本の政治家、官僚。内閣総理大臣(第56・57代)。位階は正二位、勲等は大勲位。旧姓佐藤(さとう)。元衆議院議員、CIAエージェント。満州国総務庁次長、商... |
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福田赳夫
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員、農林大臣(第27代)、大蔵大臣(第70・73・74・78代)、外務大臣(第99代)、行政管理庁... |
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赤城宗徳
日本の政治家、教育者、剣道家。元衆議院議員。栄典は正三位勲一等。農林大臣、内閣官房長官、防衛庁長官等を歴任した。永年勤続議員表彰受彰。剣道の称号は... |
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伊藤宗一郎
日本の政治家。衆議院議員を13期務め、在任中には科学技術庁長官や衆議院議長などを歴任した。 |
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竹下登
日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。島根県議会議員、衆議院議員(14期)、内閣官房長官(第35・38代)、建設大臣(第38代)、大蔵大臣(第84・86・8... |
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三塚博
日本の政治家(故人)。元衆議院議員(10期)で、運輸大臣(第57代)、通産大臣(第50代)、外務大臣(第115代)、大蔵大臣(第102代)、衆議院議院運営委員... |
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椎名悦三郎
日本の官僚、政治家。岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現・奥州市)出身。田中角栄の首相退陣の折には後継を三木武夫とする選定を下した、俗に言う「椎名... |
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松野頼三
日本の政治家。階級は海軍主計少佐。位階は正三位。勲等は旭日大綬章。総理府総務長官、労働大臣、防衛庁長官、農林大臣を歴任した。 |
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逢沢一郎
日本の政治家。自由民主党衆議院議員。松下政経塾出身者初の国会議員、また政務次官に就任した人物である。血液型はO型。祖父の逢沢寛、父の逢沢英雄も衆議院... |
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木村俊夫
日本の政治家。佐藤栄作が最も信頼した側近の一人。 |
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プロフィール
- 愛知揆一とは
- 生い立ち
- 職歴
- 参議院議員
- 衆議院議員
- 外務大臣
- 大蔵大臣
- その他
- 家族
- 関連文献
- 関連サイト
愛知揆一(あいちきいち、1907年10月10日-1973年11月23日)は、日本の政治家である。初め参議院議員、後に衆議院議員に転じ、 外務大臣や大蔵大臣など、多くの要職を歴任した。
生い立ち
| 東京市麹町区に、愛知敬一・祥夫妻の長男として生まれた。 |
| 父・敬一は物理学者で、1911年(明治44年)に東北帝国大学教授となり、愛知は仙台市で育つこととなった。 |
| 愛知は旧制宮城県第二中学校(現在の仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学、1931年(昭和6年)に卒業した。 |
職歴
| 大学卒業後は、大蔵省に入省し、主に財務関連を担当した。 |
| 終戦は、同省官房長、銀行局長などを歴任し、GHQによる財閥解体のなかで日本の金融界を守るべく腐心した。 |
参議院議員
| 1950年(昭和25年)、参議院全国区から自由党公認で立候補して初当選、参議院議員に就任した。 |
| それまでの経験と政策能力は、同じく大蔵省出身で当時大蔵大臣を務めていた池田勇人から高く評価され、1952年(昭和27年)の池田・ロバートソン会談には、政府代表として池田に随行した。 |
| 当時の内閣総理大臣・吉田茂の側近として「吉田13人衆」のひとりにも数えられ、1952年(昭和27年)に組閣された第5次吉田内閣では、通商産業大臣兼経済審議庁長官に起用された。 |
衆議院議員
| 1955年(昭和30年)、第27回衆議院議員総選挙に宮城県第1区から立候補して当選、衆議院議員に転じた。 |
| 同年、保守合同に伴って自由民主党に参加、1957年(昭和32年)発足の第1次岸内閣(改造)では内閣官房長官、1958年(昭和33年)発足の第2次岸内閣では法務大臣及び自治庁長官にそれぞれ就任し、さらに1964年(昭和39年)発足の第3次池田内閣(改造)では、文部大臣及び科学技術庁長官を務めた。 |
外務大臣
| 愛知は、次第に池田による高度経済成長政策を批判するようになり、代わって岸信介に接近、岸の実弟である佐藤栄作が領袖を務める派閥、佐藤派に所属した。 |
| 同派内では、田中角榮、保利茂、松野頼三、橋本登美三郎とともに「佐藤派五奉行」と呼ばれ、佐藤が掲げた「社会開発」の概念を、側近として取りまとめた。 |
| 1964年(昭和39年)11月、当時の首相・池田勇人の病気による退陣を受けて佐藤内閣が成立すると、愛知は内閣官房長官と外務大臣を兼任した。 |
| 外務大臣としては沖縄返還に向けての日米交渉を担当し、1972年(昭和47年)には沖縄返還協定が締結されることとなった。 |
| 長期政権となった佐藤の退任時、佐藤が後継者と考えていた福田赳夫ではなく、田中角栄を支持、田中が自民党総裁選挙立候補に際しての政策立案を行った。 |
| 1972年(昭和47年)7月、田中が自由民主党総裁に選出され、内閣総理大臣に就任した。 |
大蔵大臣
| 1972年(昭和47年)12月22日、第2次田中内閣が組閣され、愛知は大蔵大臣に起用された。 |
| 積極財政論者でもあった愛知が田中内閣の「切り札」として、最も困難な時期に大蔵大臣に登用されたことは、愛知の実力が高く評価されていた証である。 |
| 1973年(昭和48年)の財政は、スミソニアン体制が完全に崩壊を見せるなか、円の変動相場制への移行が決定され、外国為替取引が大きく転換する状況を生じた。 |
| さらに、「日本列島改造論」によって、景気過熱による極端な物不足とインフレーションが起こっていたところに、同年10月初旬からの第四次中東戦争により生じた第一次オイルショックが顕在化、産油国からの石油供給が削減されたことによって、インフレと物不足はフルギャロップで昂進した。 |
| そのような状況で蔵相であった愛知は積極的に各国を訪問し、経済外交を推進した。 |
| このような状況において緊急石油対策や昭和48年度補正予算案の編成などが行われるさなか、激務をこなしていた愛知は体調を崩してしまった。 |
| そして1973年(昭和48年)11月23日、急性肺炎のため、慶應義塾大学病院にて死亡。 |
| 蔵相会議(現在のG7)を控えていた愛知は、意識が混濁するなか、うわ言のようにフランス語、ドイツ語を口走っていたという。 |
| 現職閣僚の死亡は、1945年(昭和20年)の陸軍大臣・阿南惟幾死亡以来28年ぶりのことであった。 |
| 訃報を聞いて病院に駆けつけた内閣総理大臣:田中角栄は愛知の遺体を呆然と見つめ、「巨星墜つ……。 |
| この時期に愛知君を喪ったのは痛い……」と呟き、その死を嘆いた。 |
| 田中は愛知の死去を受けて内閣改造に踏み切り(第2次田中角榮内閣第1次改造内閣)、後任蔵相には均衡財政論者である福田赳夫が就任した。 |
| また当時、前年から自身の秘書官として務めていた娘婿の愛知和男は翌年1月投票の仙台市長選挙への立候補を表明しており、愛知の急逝はその選挙戦にも影響を与えた |
その他
| 1965年(昭和40年)12月、全国経理学校協会(現:全国経理教育協会)初代会長に就任し、死亡時まで在職した。 |
| 東洋学園短期大学の第2代学長を務めている。 |
| 没後に従二位が追叙された(没日の1973年11月23日付)。 |
家族
| 愛知夫妻には実子がなく、富子夫人の姪・絢子を養女とした。 |
| なお愛知富子は、2007年(平成19年)2月26日に死去した。 |
| 愛知の後継者は、絢子の夫で娘婿・愛知和男(旧姓中田)である。 |
| 愛知和男は、地盤を継ぎ、1976年(昭和51年)の総選挙で衆議院議員となり、環境庁長官や防衛庁長官を歴任した。 |
| 愛知の孫にあたる愛知治郎は参議院議員で、愛知和男の次男である。 |
関連文献
| 『ステーツマン愛知揆一追想録』日本経済研究会1979年。 |
| 『天神町放談』愛知揆一遺稿集刊行会1974年。 |
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1973年
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没後に従二位が追叙された(没日の付)。 |
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