| 明治3年(1870年)3月、米国留学する具定・具経兄弟の随行者として折田は横浜を出航した。 |
| 随行者にはほかに、長崎でフルベッキに学んでいた服部一三・山本重輔がいた。 |
| 5人は政府の資金援助を得られる官費留学生であった厳(2008)、p.22。 |
| 政府が折田に指示したテーマは「制度学」であった板倉(1993)、p.235。 |
| 原出典:石附実『近代日本の海外留学史』。 |
| 岩倉兄弟と服部・山本はニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学の予備校(グラマースクール)に入学したが、折田だけはニューブランズウィックから西へ10km離れた牧師宅に寄宿した厳(2008)、pp.24-25。 |
| 折田だけが別行動になった理由は、折田の英語力不足(岩倉兄弟も同様であったが、彼らには身分があった)、日本人学生を受け入れる下宿探しの困難、定員の制約などが推測されている厳(2008)、pp.26-27。 |
| 歴史学者としても知られるコーウィン牧師は複数の日本人留学生を受け入れており、折田は神田乃武と一時期同居していた厳(2008)、pp.27-28。 |
| ミルストンで折田は毎日のように教会に通い、聖書の勉強会に参加するようになる厳(2008)、p.31。 |
| 旧知の森有礼は、当時駐米公使としてアメリカに赴任していた。 |
| 折田は、森やほかの留学生仲間と頻繁に手紙や書籍のやり取りをしている。 |
| 原保太郎、最上五郎、戸田氏共などとは親しい交流があったほか、スイスに留学していた同郷の大山巌と文通をしている。 |
| 1872年3月、岩倉使節団で訪米した岩倉具視に兄弟の状況を報告するため、折田はワシントンに赴いている。 |
| 1872年5月、具定は体調不良のため帰国、具経は父とともにヨーロッパに渡り、折田は岩倉兄弟の随員としての制約から解放された厳(2008)、pp.32-34。 |
| 折田は1872年6月27日にプリンストンのニュージャージー大学(現・プリンストン大学)に合格し、入学する。 |
| 長老派教会の大学である同校を受験したのはコーウィンの勧めであると言われるが、森有礼も大きく関わっているとされる厳(2008)、pp.35-36。 |
| 折田の入学の際には森有礼がプリンストンまで赴き、保証人としてサインをしている厳(2008)、p.40。 |
| ニュージャージー大学の1年上には高良二(高良之助)がおり、親交を結んだ。 |
| 当初は全科目(ラテン語やギリシャ語などの古典語を含む)を履修する正規の学生ではなく「専科生」としての扱いであったが厳(2008)、p.39。 |
| 、古典語をはじめとして猛勉強を行い、4年次には正規の学生に認められている厳(2008)、pp.47-48。 |
| 一方で在学中には当時アメリカの大学で流行していたスポーツにも親しんだ。 |
| ニュージャージー大学の学長は、南北戦争後の大学再建に努めた人物であり、「秩序ある自由」のもとで学生の自主性と学習意欲を重んじ、選択科目制を導入した厳(2008)、pp.70-71。 |
| 教育者折田の「自由」の精神は、この留学時代に培われたとみなされている板倉(1993)、pp.6-7。 |
| 卒業を控えた1876年5月28日に、マコッシュの司式によりキリスト教の洗礼を受けている。 |
| 1876年6月、(学士)の学位を得てニュージャージー大学を卒業した。 |
| 卒業に際しては、成績上位者の中から教員の投票によって選ばれ、式辞を述べる栄誉を得た厳(2008)、p.48。 |
| 1876年には、米国でフィラデルフィア万国博覧会が開催され、日本政府も出展を行った。 |
| この際、折田は博覧会副総裁西郷従道から調査・通訳などへの協力を求められた板倉(1993)、pp.123,258。 |
| 大学卒業後の6月に正式に米国費府博覧会御用掛を命じられて2ヶ月間勤務し、西郷ら要人の視察に同行。 |
| 報労金として150ドルを受領した板倉(1993)、p.6,258。 |
| 折田は博覧会終了後に西郷の許可を得て、博覧会に出品されていた『日本博物誌』を母校に寄贈する板倉(1993)、p.125。 |
| 折田は1876年(明治9年)9月2日にニューヨーク港からアカプルコ号で帰国の途につき、パナマ経由で10月27日に横浜港に帰国した板倉(1993)、pp.126-127。 |