| 1970年、東京学芸大学入学後すぐに「映像芸術研究会」を設立後に『平成ガメラシリーズ』を監督する金子修介はこの時のメンバーで、押井の直接の後輩である。 |
| 、実写映画を撮り始める。 |
| この時期、いくつか映画を製作するが、完成したのは卒業制作の一本のみであったとのこと。 |
| 学生時代は塾の講師を2年務めていた。 |
| 卒業間近に映画監督への道を諦めて小学校の図画工作の教員になる予定だったが、教員試験の願書の提出を頼んでおいた友人が提出することを忘れていたために受験が不可能となってしまい、映画関係の会社に就職活動するも全社不採用となる。 |
| 1977年、ラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、給料が少なく生活が辛かったので半年で退社。 |
| 「ひたすら毎日プラモデルを作るなどして暇をもてあましていた」(本人談)時に、電柱に貼ってあった求人広告を見てタツノコプロの面接を受けるこの時、タツノコプロの制作した全ての作品を見ていると語って入社したが、実際は『ガッチャマン』を数回見た程度だった。 |
| 当初は事務雑用を担当していたが、演出の人手不足からアニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した西久保瑞穂、真下耕一、うえだひでひとと共に「タツノコ四天王」の異名を取るようになる。 |
| なお、西久保と真下が演出助手から始めたのに対して、押井はラジオでのディレクター経験を買われ、最初から演出を任されていた。 |
| 独特のギャグの才能をタツノコプロ演出部長の笹川ひろしに買われて、『タイムボカンシリーズ』を長く担当。 |
| タツノコプロ退社後もアルバイトで絵コンテを描き、後には持ちネタのひとつとした「立ち喰い」ネタをこの時すでに『タイムボカンシリーズ』に盛り込んでいる。 |
| 1980年、私淑する鳥海永行に続く形でスタジオぴえろに移籍。 |
| テレビアニメ『ニルスのふしぎな旅』のレギュラー演出家として鳥海の下につく。 |
| タツノコプロ時代よりこの頃の押井はギャグを得意とすると見なされており、ぴえろ社員として『まいっちんぐマチコ先生』の絵コンテを1本描いたこともあった。 |
| 翌1981年、テレビアニメ『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。 |
| 当初は低視聴率に苦しみ、フジテレビ側との軋轢も生じたが、原作の的確なアレンジ、千葉繁演じる「メガネ」などの押井の分身とも思えるサブキャラクターの熱演、若手スタッフの登用と彼らによる“暴走”と呼ばれる作画、映画や漫画のパロディや前衛的な内容などが視聴者に支持され、やがて高視聴率を挙げるようになるただし、あまりにも原作とかけ離れたオリジナルの回の放送直後に呼び出しを受けるなど、局側との軋轢は続いた。 |
| その後、劇場版第1作『うる星やつらオンリー・ユー』、さらに劇場版第2作『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』で単なるアニメ演出家というよりも映像作家として認知されるようになる。 |
| なお『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』は1984年キネマ旬報読者選出ベスト・テン第7位(邦画)という快挙を成し遂げている(同年の1位は『風の谷のナウシカ』)。 |
| 虚構性をテーマとする押井の作風が確立したのはこの頃からである。 |
| 1984年、『うる星やつら』を降板すると同時にスタジオぴえろを退社当時『アニメージュ』のプレゼント色紙に「玄界灘」というコメントとともに崖に立つ自画像を描いたこともある。 |
| 以後フリーランスの演出家となる。 |
| 1984年に宮崎駿、大塚康生の誘いもあり、『ルパン三世』の映画第3作の監督の依頼を受ける。 |
| ところが、半年間考えた脚本を東宝と読売テレビのプロデューサーから没にされて製作は中止NHKの番組『ソリトン』に出演した折の発言によると、その脚本とは「ルパンなる人物は実は存在しない」という内容だったという。 |
| 詳細は押井版『ルパン三世』を参照のこと。 |
| その後、同映画のスタッフだった天野喜孝とともに、徳間書店・『アニメージュ』のバックアップにより、スタジオディーンの制作でOVA『天使のたまご』(1986年)を完成させる。 |
| なお、『天使のたまご』には、のちの劇場アニメ『機動警察パトレイバーtheMovie』にも共通する、幻となった押井版『ルパン三世』で押井が描こうとしたテーマが根底に流れているといわれる。 |
| また、同年『アニメージュ』誌で初の漫画原作作品『とどのつまり…』連載を開始。 |
| 作画は『うる星やつら』の作画を支えた森山ゆうじが担当した。 |
| 『天使のたまご』以降は作家性の強いマニアックさが災いして5年ほど干された(本人談)。 |
| 最初の1年目は毎日ひたすらTVゲームをして過ごしていたが、2年目は貯えも底を突き、さすがに危機感を覚え、企画書を書いて持ち込んでは断られという毎日だったという。 |
| そこに、スタジオぴえろ時代の同僚である伊藤和典より『機動警察パトレイバー』の企画を進めていた「ヘッドギア」への参加依頼を受け、押井曰く「しょうがなく」参加する。 |
| 1987年、タツノコプロで同僚だった西久保瑞穂が監督を務めた『赤い光弾ジリオン』に参加。 |
| 絵コンテ2本のみだったが、この作品がきっかけとなって、後に活動の拠点とするProductionI.Gとの付き合いが始まる。 |
| 同年、声優・千葉繁のプロモーションビデオを自主制作する話が発展し、『うる星やつら』も担当した音響制作会社オムニバスプロモーションの製作による実写作品『紅い眼鏡』を監督。 |
| この映画の予算は「こんな低い制作費で作れるわけがない!」と関係者が叫んだほどの安さで、自主製作映画に近いものだった出演者の大半が手弁当だったという。 |
| しかし、その低予算ゆえのユニークな演出が一部で高い評価を受ける。 |
| これ以後、アニメのみならず、実写にも活動の場を広げる。 |
| 1988年にはOVA『機動警察パトレイバー』を監督して第一線に復帰。 |
| 続けて1989年に公開された劇場アニメ『機動警察パトレイバーtheMovie』で第7回日本アニメ大賞を受賞し、メジャーシーンに返り咲いた。 |
| スタジオぴえろから独立後、OVAシリーズ『機動警察パトレイバー』まで、押井はスタジオディーンと組んで仕事をすることが多かったが、『機動警察パトレイバーtheMovie』を契機として、活動の拠点をProductionI.Gへと移した。 |
| 以後、ProductionI.Gにはフリーでの参加ながら、企画者育成のために「押井塾」を主宰するなど、中心的役割を担っている。 |
| 1995年の『GHOSTINTHESHELL/攻殻機動隊』で海外から注目を浴び、同映画を収録したビデオはアメリカ『ビルボード』誌のホームビデオ部門で売上1位を記録した押井守が言うには、「年間」ではなく、「週間」の最大瞬間風速でしかない。 |
| アメリカでの上映時のフィルムの状態がひどく悪く、鮮明な画質で見たい人たちが発売と同時に購入した。 |
| 実は既に、成人向けアニメが1位を記録していた、とのこと。 |
| スティーブン・スピルバーグやジェームズ・キャメロンなどに絶賛され、ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』はその影響を強く受けている。 |
| 1997年に織部賞を受賞。 |
| 2004年には『イノセンス』が第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた。 |
| カンヌ国際映画祭のコンペ部門に日本のアニメーション作品が出品されるのはこの作品が初めてであった(宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』はベルリン国際映画祭に出品)。 |
| 2005年の愛知万博にて、中日新聞プロデュース共同館「夢みる山」で上映した映像作品『めざめの方舟』の総合演出を担当した。 |
| 学生時代はSF小説家も志望していたが、ほぼ同い年である山田正紀のデビュー作『神狩り』を読んで才能の差にうちのめされ、「小説家になるのを諦めた」といくつかのインタビューで語っている。 |
| 2008年、『スカイ・クロラTheSkyCrawlers』がヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門ノミネート。 |
| 2009年は、6月公開の『宮本武蔵-双剣に馳せる夢-』で、原案・脚本を手がけた |